今日を摘む

ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

『さびしさの授業』


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”世界にとって「私」は別の「私」であってよいにもかかわらず、 「私」は不思議な導きによってここに行かされている。”

”そう、「私」の奇跡は、身近にいる人々との関係の中に隠されて います。家族との時間の中に、友だちとの交流の中に、恋人との出 会いの中に……。その特別な感情の現れだけが、「私」が、 誰にとって替わられてもいい「私」でないことの確証です。 
 だから、ぼくらはもっともっと日々の感情や、他者との交流に繊細 になるべきでしょう。毎日を大切に生き、身近な人たちとていねい につきあっていくことで、「私」は本当に必要とされる「私」 になれるはずです。そうした個人的な関係の広がりと深まりこそ、 「私」がこの世界に生きられる場所を作り出していくことだと思い ます。 
 現実の世界に帰還した千尋の頭に、銭婆から贈られた髪留めがさり げなく光っていたように、ぼくらの日常には、「私」を愛するため のヒントがさりげなく示されているのです。”

『さびしさの授業』伏見憲明 理論社 よりみちパン!セ04 より引用。

 


ご想像の通り、引用文に出てくる「千尋」とは、宮崎駿作品『千と 千尋神隠し』の主人公の女の子のことである。

この本の『千と千尋』考はすごい。
というか、初視聴時小学生だった自分にはもちろん、大人になった 今でもここまで見抜くことはできなかった。


 現代社会において、自分探しだとかそれにまつわる内容は多い。
言ってしまえば、暇なのだ。
暇だから「私ってみんなにどう見られているのだろう」とか、「本 当の自分はもっとかっこよくて…!」とか考えてしまう。
その日を生きられるかどうかも怪しかった時代に比べれば、なんと も贅沢な悩みである。

 

まあ、アイナナの天くんみたく「他人ではなく、最高だった時の自 分と比べろ」という強固な意志があれば別なのだが、凡人である私 はそうもいかない。


誰かが褒められれば「すごいね」と言いつつも、水面下では「私だ って…!」という気持ちが頭をもたげる。
(常に他人と自分を比べようとする人は、愛着の形成がうまくいっ ていないという一因もあるらしい)


自分を自分でいさせるものは何か?
それは他者との関係性の中にしかない。

 

誰にもまねできない特技があるとか、歴史の知識なら負けないとか 、そういった数値や勝敗で表せられるものの中にはない。
自分と世界をつなぐものは、いつだって他者である。
家族や友だち、同僚など、自分とつながりのある人たちである。
自分という点が誰かとつながって、それによって描かれる軌跡しか 、自分と世界をつなぎ止めてくれるものはない。

 


あんまり書くとネタバレになってしまうが、伏見さんの『千と千尋 』考の一端を紹介する。

 

伏見さんが注目したのは、千尋の表情だ。
冒頭ではぽやっとしたどことなく締まりのない少女の顔が、父母を 助けるために奮闘するとき、とても強くなるのだ。
そして、紆余曲折の末に銭婆から髪飾りはとてもシンプルなもの。
ぜんぜんキーアイテムには見えない。

 

だが、それこそがこの作品の肝だ。
幸せはシンプルで目立たない。
特別なものではなく、日常の中に姿を溶かし込んでいる。

 

ラストの千尋の表情は、最初と同じくぽやっとしている。
きびきび働いて、しっかりとした足取りで銭婆の家まで行ったとき とは違う、締まりのない顔だ。


あれだけがんばって成長したと思ったのに。

でも、油屋で奮闘したことはなかったことにはならない。
思い出せなくても、人は過去を忘れることはない。

 


…この考察を読んだときは「うおおお…!!」って感じで興奮した 。
まだまだ私も、読解のレベルが足りないらしい。