『 かもめのジョナサン【完全版】』を読んで
いえ、生きることは奇跡じゃありません。退屈なものです。あなたの偉大なジョナサン師は、ずっと昔にだれかがでっちあげた神話です。世界のありのままを見ることに耐えられない弱虫が信じるおとぎ話じゃありませんか。
(本文Part Fourより引用)
私たちの世界はきらきらしたものであふれている。
恋愛は素晴らしく、家庭を持つことは苦労もあるが、そこにはかけがえのない喜びがある。人は自由で、努力次第で何者にでもなれる。
そんなポジティブで美しい言葉がそこかしこに散らばっている。
だが、そんな楽しげでキラキラした言葉があふれていることこそが、世界は退屈で無感動でで灰色であるということの何よりの証明なのかもしれない。
インスタ映えとかTwitterでのバズりを狙ったりとか、YouTuberになって人気者になりたいだとか。
それらはつまり、自分の見ている世界や食べているモノに対して、「ねえ、ワタシってこんなに素敵な場所にいるの!」「このごはん、キレイでとってもおいしそうでしょ?」と、世間や顔の見えない誰かに認めてもらいたい、いや、認めてもらえなければ「素敵」「おいしそう」だと自分が安心できないのだろう。
誰かに「いいね」や「♥」をつけてもらえたとしても、それはあくまで見た目に対してのことだ。
あなたの食べるご飯の味が「いいね」の数で変わるわけではない。
肥大化した自己承認欲求。
世間(といってもSNSにおける世間はほんのごく一部の人の集まりでしかないのに)に「これってステキでしょ!?」とお伺いを立てなければ生きられない現代人。
ごく一部の世間の「いいね」に振り回される現代人は不自由の極地にいるのかもしれない。
ー自由とはなにか?ー
「老い」と「孤独」ってのは残酷だってところから始めなきゃウソなんだ。
でも真実は逆だよ。人生は、年齢を重ねるほどつまらなく不自由になっていく。夢のように輝かしい老後なんてないーー。それこそが真理だ。老いるってことは、想像してる以上に残酷だ。まず、それを受け入れることから始めないとさ。
(『「さみしさ」の研究』 ビートたけし 小学館新書より抜粋)
自由の第一歩は、「知ること」だと私は思う。
生きることは「はっぴー!」なのではなく、退屈で辛くて、苦しいことだ。
もちろん楽しいことや、涙が出るほど嬉しいことだってあるだろう。
「輝かしい老後」なんて世間が創った虚像に惑わされず、きちんと自分の目で見つめること。美しいところも醜いところも、目をそらさずに受け止めること。
世界は美しく、残酷で厳しい。
言葉によるまやかしを取り払うことが、自由への第一歩だ。
ーなら、自由になるためにはどうすればいいのか?-
真実を知って、「行動する」こと。
生きることは退屈で、老いることは恐怖で、世界は美しいが厳しい。
その上で、自分が行動していくことだ。
町中を埋め尽くす広告や、ネット上にあふれた「これステキでしょ!?」のオンパレード。そして、それに群がる私たち。
何が食べたいのか、自分はどういったものをイイと感じるのか。
それを知るために必要なのはただ一つ、行動することだけだ。
「自分は何が食べたいのか?」
それは頭の中には無い。
もちろん、「お腹がすきすぎて何でもいいから食べてしまいたい!」という時はある。
でも、口に入れてみて初めて、
「油っこいなあ、もっとさっぱりした方が好き」
「塩が効いていておいしい。もっと食べたい」
といった、”自分の身体が欲しがっているか ”が分かる。
どれだけネットでの評判が良くても、「自分の口には合わない食べ物」や、「話が好みじゃない」映画など、自分で体験してみるまではただの情報でしかない。
目で見て耳で聞いて脳が処理しただけの”情報 ”が、私たちを満足させることはない。
ー・ー・ー・ー
哲学の世界において、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という言葉が、私たちの”心 ”というものに対する比重を変えた。
「どれだけ世界が不確かであっても、その世界を見ている私だけは確実に存在する」という意味の言葉から、二十世紀以降の哲学・心理学の世界では
心(脳) >>>>> 身体
という図式が確率した。
しかし、21世紀の現在では「私たちは心や意思にばかりとらわれすぎて、身体をないがしろにしてきたのではないか?」という方向へと回帰しつつある。
頭の中に入ってくる言葉の飾りを取り払って、自分の身体でぶつかって、自分の手で掴む。自らの行動で乗り越えていく。
では、その先には何があるのだろうか?
すべては生きていくための退屈を紛らわす暇つぶしに過ぎないのではないか?
じゃあ、私たちが生きる意味とはなにか?
それは、生きたものにしか分からない。
なぜなら、生きる意味は個人が体得していくものであり、言葉(情報)として与えられるものではないからだ。
ー自由に生きるために必要なことはわかった。でも、自由っていいことなのか?ー
結論から言うと、自由は疲れる。
自分で探して自分でやってみて、と、とても手間がかかる。だが、人は自分で決めて自分で体験しないと、満足を得られない。
「これがイイよ!」という情報は、私(の心と身体の両方)を満たすことはないのだ。
だから、自由でいるためには
①言葉の虚飾を見破り
②社会の意図を見抜き
③その上で社会の言葉に耳を傾け
④自分自身で体験する必要がある
ー私は今、「自由」か?ー
貨幣経済かつストレス社会のまっただ中にいて、私はいろんなものに縛られている。
お金、仕事、人間関係、病気、ちょっとした悩み…。
なんだか、生きること自体が自由への挑戦みたいなものだと思う。
生きることは奇跡ではなく、退屈で地味で面倒くさいことだ。
だが、その面倒ごとに挑戦して自ら体験しなければ、自由も、生きる意味も分からないのだ。
私たちの目と耳を覆い尽くす膨大な情報。
情報は人を幸せにしない。
自分の身体で体現しなければ、自由も、生きていく意味も、分からないままだ。
〈『かもめのジョナサン』あらすじ〉
「飛ぶこと」に魅せられ、仲間からも変人(鳥)扱いをされながらも、ひたすらに飛行技術を磨き続けるカモメのジョナサン・リヴィングストン。
カモメたちは「我々は食うために飛ぶのだから、危険な飛行法をする必要はない」と、ジョナサンを非難していたが、彼の理念は次第に仲間たちにも認められ、他のカモメたちも飛行技術を磨こうと挑戦を始める。
やがてジョナサンは誰よりも美しく飛ぶ「偉大なカモメ」としてカモメたちの尊敬をあつめ、彼が仲間たちのもとを去ったあとも、その理念は若いカモメたちに受け継がれていく。
だが時は過ぎ、ジョナサンが目指した「さらなる飛行技術の向上を目指す」という理念は形骸化し、カモメたちは飛行技術を磨くのではなく、「偉大なジョナサン」を神のように崇め讃えることだけに夢中になっていく…。
…じつは、「飛行技術を極めたジョナサンが神格化され、他のカモメたちに奉られる」というのは、初版(1974年)にはなく、2013年に後から追加されたものだ。
ただし、本文自体は1974年の時点で完成していたが、この結末をよしとしなかった作者本人が、ラストをまるまるカットして発表した。
だが、2013年に作者本人が必要を感じ、既出部分とカット部分を合わせて完全版として再発表したのである。
「あんたのいる二十一世紀は、権威と儀式に取り囲まれてさ、革紐で自由を扼殺しようとしている。あんたの世界は安全にはなるかもしれないけど、自由には決してならない。分かるかい?」
(『カモメのジョナサン【完全版】』完成版への序文より引用)
紹介書籍
『カモメのジョナサン【完成版】』
・ リチャード・バック
・ 創訳 五木寛之
・ 写真 ラッセル・マンソン
・ 新潮文庫