今日を摘む

ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

読書について その1 生い立ち

ちょうど購読している勝間和代さんのメルマガ(有料のほう)が読書についてなので、私も自分の読書半生についてまとめてみることにしました。

 


私の思う読書のメリット 


①本を探せば何かしらの答えが見つかる


どんな悩みや疑問や不思議にもその道の先人がいます。
とりあえず困ったら本屋に行ったり、良さげな本がないか探すようにしてます。
言い方を変えれば、どんなときでも道は必ずあるということです。

 


②本を読む人はすごく見える


お菓子を大量に何でもかんでもカゴに入れて、「いやもうそれ食べきれないでしょ!」ってくらい買い込む人を見れば、周囲はその人を自制心のない人だといって非難するでしょう。
しかし、これが本になるだけであら不思議。
勉強熱心のインテリに見えちゃいます。
本人は知識欲に対するブレーキがぶっ壊れていて「今知りたい! 今読みたい!」という欲望のままカゴに本をつっこんでいるだけです。
ま、お菓子と違って腐らないし太らないからいっか!

 


③一人の時間を大切にできる


これは後で説明しますが、私は本を読む友人を得たことをきっかけに、「自分が一人でいたい時間」と「友人が一人でいたい時間」、両方を尊重できるようになりました。
いつも一緒にいるのではなく、それぞれのやりたいことを大切にすることが大切である。

 

 


私の生い立ち


わたしの両親は本を読まないタイプの人間です。
漫画も読まないので、家にあるのは母の趣味であるお菓子作りの大判本と夢占いの本だけ。
でも、絵本だけはいっぱいありました。
おそらく何かの教育シリーズをまとめ買いしたもので、全部で30冊くらいはあったと思います。

 


それプラス、私を主人公にした絵本が二冊ありました。
どういうことかというと、私の本名と同じ名前の女の子が主人公として出てくるんです。
そして本の最後に「○○ちゃん、お誕生日おめでとう」という感じで、私へのメッセージが載っています。
(余談ですが、「その子が主人公の本をプレゼントする」は、私の子どもにやってあげたいこと№1です)

 


絵本はたくさんありましたが、両親が本を読んでくれた記憶はありません。
母はとても厳しい人で、私は一日一回は叱られて泣いていました。
私にとって母は恐怖の対象であり、理由もなく近寄ることはできなかったのです。

 


大人になった私が思うに、母は子どもという存在を理解していなかったのでしょう。
子どもは自分のペースで生きているので、会話は矛盾だらけだし、いうことは聞かないし、玄関に泥団子を展示するしで、子ども(幼児)に慣れていない母はその奇想天外な生き物に対して対応しきれなかったのでしょう。

 


私は教員免許を取る課程で児童心理について学び、そこで初めて母の苦悩を知ることができました。
私自身も幼児期の記憶の中で、「なんであんなことしたんだろう……」と思うことが多々あったからです。
子ども(特に幼児)は自己中心性がある(他者の視点を想像できない)ので、「思いやりをもとう」と言われても理解できないし、「ダメ」だと言われていても自分が「やりたい!」と思ったらその先なんて考えられない。

 


親がどれだけ「あれほど言ったでしょ!!」と怒ったところで、自分が「やりたい!」と思ったらそのまま突き進んでしまう。
しつけうんぬんではなく、子どもの脳はそうなっているから仕方が無い。

 


……正直、昨今の児童虐待の増加は子どもというハイパー・自己中エイリアンに対する知識不足のせいでは……と私は思っています。
だって、世の中の多くの人は
 「子どもであっても、心をこめてしっかりと説明すればきっと分かってくれるはずだ」
 って思っているでしょう?
子どもは脳が未発達だから、何回言っても理解できないけど、なんども言ってあげましょうね、なんて賽の河原の石積みみたいなアドバイスはなかなか見ない。

 


でも、それが事実です。
悪いことをしたらちゃんと怒る。
怒られた瞬間は子どもも反省するし、これはやっちゃいけないんだな、と理解する。
しかし、「やりたい」という衝動がわき起これば、過去の記憶なんてふっとんでしまう。
そしてまたどうしてダメなのかを懇々と諭す。
以下、無限ループ。

 


今、子育てに悩んでらっしゃる方へ。
子どもがわがままで親の言うことなんてちっとも聞かなくて、勉強なんて全然やらないのは、親のしつけのせいではありません。
子どもはそういうものなんです。
だから、安心して下さい。
脳の発達は個人差があるので何歳になればOKとは言えませんが、ちゃんと理解できる時がきます。
時間が必要なだけです。

 

 


えー、話を読書に戻します。


私の家は絵本はたくさんありましたが、両親は本を読むことも読み聞かせをしてくれることもありませんでした。
恐ろしい母とは対照的に、父は私をべたべたに甘やかしてくれました。
ですが、父も活字を全く読まない人でした。

 


幼稚園から小学校低学年にかけての私の主な読書は、家にある絵本と祖母が買ってきてくれる「なかよし」でした。
まだセリフから話を理解することができなかったのか、当時載っていた「セーラームーン」や「カードキャプターさくら」も、絵柄は思い出せますが話はまったく覚えていません。
ネコが好きというのもあって、「まぼろし谷のねんねこ姫」をよく読んでいました。

 


小学校中学年のころから、小説を読むようになりました。
友だちが「わかったさん」「こまったさん」シリーズの本を読んでいて、料理やお菓子作りが好きな自分も興味がわいたのです。
他にも、「わたしのママは魔女」シリーズも読みました。
ナパサパイピの鉛筆、欲しかったなー。

 


小学校高学年の頃、一つ上の友人に「りぼん」を勧められました。
口説き文句は「『神風怪盗ジャンヌ』読まない?」でした。
小学3年生くらいのときに一端「なかよし」を離れたのもあり、そこからは一気にりぼんにのめりこんでいきました。
ちょうど物語を理解できる年齢になっていたのもあり、なかよしを読んでいた頃は「付録が欲しくて買う」という気持ちでしたが、りぼんは「話の続きが気になるから買う」という気持ちになっていました。
(まさか、当時はまっていた『GALS!』の続編が始まるとは!)

 

 


中学生になり、ジャンプを買ったりガンガンを買ってみたり、読むジャンルは一気に広がっていきました。
一方、私は中学に入ったころから全く本を読まなくなりました。
理由は一つ、大人の読書奨励がうざかったから、です。


私の行っていた中学では朝読書の時間があり、毎朝10分間、1時間目が始まる前に読書をしなければなりませんでした。
先生や周囲の大人たちは決まってこういいます。
「本を読め、本を読めば頭が良くなる」と。
その押しつけがましい教えに私は反発を覚えました。

 


こうなったら意地でも本なんか読んでやるものか。
私は図書室で手頃な大きさの本を借りてきました。
朝読書の時間はそこに漫画を挟み、こっそり読んでいました。
ばれて没収されました。


謝る気がなかったので、没収された本は仲間と協力してこっそり取り返しました。
(悪ガキでした)

 


中学校っていろんなルールがありますよね。
髪型とか持ち物とか。
本はもってきていいけど、漫画はダメとか。
私は自我の強い子どもだったので、自分が納得できないことはてこでもやりません。

 


特に中一の頃は「提出物を出す」というルールに必要性が見いだせませんでした。
指定のワークをやろうがやらまいが、自分の実力はテストで分かる。
自分にとって必要ならワークを使って勉強する。
でも、なんでそれをわざわざ提出させるのか。
そんな努力の燃えかすみたいなものを見て、一体何になるんだろう。


(中三のころには、学校というのは提出物を出して点数さえとれば5をもらえる楽ちんなシステムだ、と理解するようになりました。
 我ながらひどい子どもである)

 


大人になって見れば、提出物ってのは社会システムに適応するための予習だったんですよね。
一見意味がないものでも、とりあえずやって期日までに出す習慣をつけさせる。

 


私個人としては、美術作品などの「評価のための提出物」と違って、学習用ワークなんてその子が「必要ない」と思えばやらなくていいと思います。
第一、ワークは勉強のための手段であって、目的ではない。
学校指定のワークが肌に合わない子もいるし、塾に行ったり、自分なりのやりかたで勉強する子は勉強する。
(まあ、現場では「出した・出さない」の事実を無視することはできないので、評価に加えなければならないのですが。)

 

 


ええっと、話を読書に戻します。

 


そんな感じで、中1,2年生のあいだは全く本を読みませんでした。
漫画を没収された後は、朝読書の時間は国語の教科書を見るともなく眺めて過ごしました。

 

 


転機が訪れたのは中学三年生に進級した直後。
二年生の時の友人とクラス替えで離れてしまい、全く新しい友人が3人できました。
そしてこの三人が読書好きだったのです。
昼休みは毎回図書室に行くようなタイプで、10分間休みも本を読んで過ごしていました。

 


彼女たちに図書室へと連行された日、私は思いました。
(やばい、私も本を読まないとこのグループからはじきだされてしまう……!)


このときの私にとって、読書は仲間を得るためのポーズであり、外交手段でした。
とにかく私もなにか本を借りなければ、と必死になって良さそうな本を探しました。
そのとき出会ったのが『ファイナルファンタジーⅪ~祈りの風~』(はせがわみやび)でした。


もともとFFは7,8,10をプレイしており、FFⅪは気になってはいたものの、ネット環境がなくてプレイを断念していたのです。
中学生になって初めて、私は自分から「読みたい」と思える本を手にしました。

 


魔法やチョコボなどの慣れ親しんだ世界は私にとってとても居心地が良く、すぐに物語の世界に入り込むことができました。
そこからは堰を切ったように読書にのめり込んでいきました。


といっても、ファイナルファンタジーⅪ以外は何を読んだらいいか分からないので、友人が読んでいたシリーズをおそるおそる手にとって行きました。
『キーリ』『キノの旅』『ブギーポップは笑わない』『Missing』などなど。
ファミ通文庫電撃文庫を中心に、三日に一冊くらいのペースで本を読んでいきました。

 


他県に越してから気づいたのですが、私のいた学校は図書環境にとても恵まれていました。

専門の司書教諭さんが常駐していて、朝から最終下校時刻までずーっと図書室が開いているのです。
なので、10分休みにばーっと図書室まで走って行って、読み終わった本の続きを借りてくることもできます。
途切れることなく話の続きに浸れるのです。

 


また、司書教諭さんは子どもたちの購入希望図書にもすぐに応えてくれました。
最新のライトノベルが豊富に取りそろえてあったのも、子どもの興味関心について理解があったからだと思います。

 

 


ありがたいことに小中高とそんな感じの図書環境に恵まれ、私の読書量はじわじわと増えていきました。


ちょうど中2くらいから『真・三國無双3』にどはまりし、歴史にも興味を持つようになりました。
たまたま本屋で三国志フェアをやっており、私は北方謙三先生の『三国志』を手に取りました。
(この本のおかげで、私の考える「カッコいい男性像」にハードボイルドバイアスがかかるようになりますが、それはまた別のお話)

 

 


私が中三で本を読むようになって良かったことの一つに、「無理に他人となれ合わなくていい」ということがあります。
今までは提出物が佳境の時以外、授業が終わる度に友人の所に行っていました。
話したいことがあるときはいいのですが、特に理由もなく集まって駄弁るというのが私は苦痛でした。
話したいことはなくても、もし友人の所に行かなかったら避けてるように思われるんじゃないか。
特に3人グループの時などは、私抜きで友人たちが集まっているだけで疎外感を感じ、行きたくなくても彼女たちの所へ行っていました。

 


これが本を読む友人たちのあいだだと、
 「AちゃんとBちゃんはそれぞれ本を読んでいる、
  Cちゃんと私は話したいことがあっておしゃべりしている」
 というのが当たり前なのです。
本を読みたいなら読めばいいし、おしゃべりしたいならおしゃべりすればいい。

 


大人になったら当たり前のことですが、40人しかいないクラスの中で「その人がしたいことをする」ってすごく勇気がいるんですよね。
特に女の子の派閥は一度確定したらそこから1年は抜けられないので、みんなグループの輪を乱さないように必死です。
自分の言動がグループの子たちに不快感を与えていないか、常に考え続けてしまうのです。

 


私は彼女たちのおかげで、
 本を読むという趣味、
 自分のしたいことをすればいいという自信、
 他人のやりたいことを尊重する健全な仲間意識
を、手に入れることができました。