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辛口レビューの使い方


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『書評の仕事』(印南敦史・ワニブックス【PLUS】新書)を読んで。

 


私は自分の選別眼にかなりの信頼を置いている。
ここ3ヶ月間に買った本でいわゆるハズレに当たるものはなかった。
どの本も面白く、様々な知識を私に授けてくれた。


しかし、久々に「帯には『秘密も技術も大公開』と書いてあるけれど、何一つ明らかにされてませんが?」とつっこんでしまう本に出会った。
この本を記憶からはじき出し、無かったことにするのはたやすい。
だが、それでは私の払った830円(+税)に申し訳ない。


私はお金をどぶに投げたのではない。
自分への投資として830円(+税)を快く送り出したのだ。
つまり、私はこの830円(+税)を自身の血肉にするという義務がある。


疑問符が浮かびまくる本にも、使い道はある。
転んでもただでは起きない。
そんな私が送る、辛口レビューの生かし方です。

 


『書評の仕事』に書いてあること


1 書評家の『秘密』
2 書評家の『技術』

 


1 書評家の『秘密』


どうやって年間500冊もの書評を書いているのか?
書評家のお給料は?
フリーランスとしての働き方は主に自分との戦いだが、筆者はどうやって乗り越えているのか?


耳慣れない職業に対して、湯水のように湧き上がる疑問たち。
しかし、筆者の答えは全てネット検索でまかなえます。


本は全部読まない。一部を重点的に読み、そこだけで書評を書く。
一記事原稿料10万円……なんてうまい話はないので、それより1,2ケタ違う。
サボってしまう人は、「自分は時間を有効に使っているか」と自問自答しよう。


いやいやいやいや。
読者が求めていた答えってそんなぺらっぺらな回答じゃないよね。

 


本は全部読まない、だなんてネットで1億回は書かれているし。
9万円~1,000円の範囲の答えなんてほぼ答えていないに等しいし。
最後はただの精神論だし。


読者が求めていた回答は、そんなネットの海にうようよ浮いてるプラスチックごみみたいにありふれたものではない。
たとえ最終的にはありふれた回答になったとしても、筆者の生活や人生の中から悲哀や歓喜と共に生み出されたものが聞きたかった。

 


2 書評家の『技術』


もっともらしいことは書いてあるが、これもほぼ全てネット検索でまかなえることしか書いていない。


・読まれる書評は、読者像が明確である
・自分を出すべきか、否か。発表媒体に合わせる
・「センス」と「コツ」をみがこう

 


作中では筆者が書評を書いている「東洋経済オンライン」や「マイナビニュース」などの読者層について、筆者自ら解説している。
しかし、この本の読者をどのように想定しているのかはどこにも書かれていない。
ターゲットが不明確という致命的なミスがこの本をふわふわした根無し草にしている。


そして、ターゲットが不明確なため、この本において「自分を出さない」という愚かな決定を下した。
書評家というニッチな世界で生きてきた人が、自身の天職と信じて長年渡り歩いてきた世界について一冊書き下ろすのだ。
ここで自分を出さなくてどうするの? 今でしょ!! って感じなのだ。


おそらく、書評家・印南敦史(さん)という名前でわざわざ検索してこの本を手に取った人もいるはずだ。
その人たちの落胆はいかほどだろう。
ブルーオーシャンの片隅で第一線を走ってきた人の思いや苦労が詰まった珠玉のエッセンスが読める……! って思ったら、ネットの記事をコピペしましたみたいな、カッスカスの文章の羅列。
盛大な肩すかしを食らってしまった。
吉本新喜劇並みにすっころんだ。

 


もちろん、書評において大事なことは何か、ということには言及してくれています。
筆者曰く、「センス」と「コツ」だそうです。
「極端な話、文章力が足りなかったとしても、センスがあればなんとかなるもの」とまで言っています。
じゃあ、その「センス」とは何か? それについては一切書かれていません。
「センスは磨き、育てることができる」とは書いてあるけれど、じゃあその育てるべき「センス」とはどういうものなのか、全く定義されていないのです。


いやいやいやいやいや。
年間500本の書評を書いてきた印南さんだからこそ考える「センス」というものがあるでしょう?
読者が知りたいのはそこなんだけど。
その後筆者は「センスが磨かれていけば、やがてそれを活用するために有効な『コツ』が浮かんでくる」と続けるのですが、「センス」の定義がない以上、「コツ」についてもあやふやなイメージしか浮かびません。


センスをみがこう! 何回も書いてコツをつかもう! …そんなの言われなくても誰もが知っていることだ。
そこに対して、筆者なりのエッセンスが一滴でも入っているなら良かった。
筆者は「センス」をどういうものだと考えていて、そのために何をしてきて、膨大な経験からどんな「コツ」を掴んだのか。
それは全く書かれていない。 

 


この本を宿題本として捉える 「オリジナリティ(独創性)」をもとに


ここまで、『書評の仕事』という本のすっかすかぶりを語ってきた。
この穴あきチーズな本に対し、不満をわめき散らすのは簡単だ。
人生も穴あきチーズも考え方次第。隙間が空いているのなら、自分が埋めてやればいい。


筆者が書評を書く上で大切にしていることの一つに、「オリジナリティ(独創性)」があります。
一応、「オリジナリティ(独創性)」については筆者が補足の説明をつけています。
それによると、「オリジナリティ(独創性)」とは、


・自分らしさが出ている
・自分にしか書けない
・人の真似ではない


だそうです。
まるで就活本かと思うような補足説明です。
要は「真似ではなく、自分から出たもの」ということなので、オリジナリティ(の、元であるオリジン・起源)を日本語に訳しただけに過ぎません。


日本語には訳したから、後は自分で考えなさいという宿題なのでしょう。そうしよう。
というわけで、私が考えた「オリジナリティ(独創性)」についてです。

 


私の考える「オリジナリティ(独創性)」とは、「感性」です。
なぜなら、同じ出来事でも人によって抱く感想が違うからです。


同じ本を読んで、「感動して震えた」という人もいれば、「キャラクターが自意識過剰すぎてついて行けなかった」と思う人もいます。
感じ方に善悪はない。
「面白い」も「つまらない」も、等しく尊い


私たちは日々いろいろなものに触れ、受け入れ、拒絶している。
そのたびごとに「面白い」や「つまらない」を感じる。
しかし、その感情は一時のもの。瞬きのあいだに消えてしまう、はかないものだ。


日々生まれ、消えていく自分のかすかな気持ち。
その気持ちはどこから来たのか。なぜ、自分はそう思うのか。
消えていくうたかたをすくい上げ、その色や形を確かめるように、自分の気持ちに向き合う。
その積み重ねが、「感性」という自分だけの感じ方を作り上げる。
同じ出来事であっても、「感性」の起源が違うので、自分なりの受け取り方ができるのだ。

 


話は変わるが、私は『山月記』(中島敦)に感銘を受けた人とは仲良くなれると思っている。
なぜなら、『山月記』が描き出した「創作という恥ずかしい行為」「自分は大物だと思いたいプライド」に対し何かを感じた人なら、その「感性」の根源には私と似たものがある可能性が高いからだ。


(ちなみに、創作が恥ずかしいのではなく、創作を「恥ずかしい」と思ってしまうどうしようもない弱さを持った自分、という意味です。)

 


オリジナリティとは、自分の感じ方の積み重ねが培った「感性」である。
だから、自分の気持ちはどんなものでも大切にすべきだし、なぜそう思ったのか、自分の気持ちの奥にある理由をしっかりと見つめるべきだ。


以上が、筆者からの宿題「オリジナリティ(独創性)」に対する私なりの回答です。

 


もっと知りたかったこと


全207ページのこの本の172ページ目、ラスト35ページでようやっと筆者の後ろ姿が見えてきます。
筆者の書評、感性の根底にあるもの。
それは音楽です。


筆者は「ヒップホップと自信」という章節で、ヒップホップ(特にラップ)と自信について述べます。


「そしてもうひとつのポイントは、ラップでした。具体的には『ことば』で勝負をかけるラッパーたちが多かれ少なかれ共通して持っている『絶対的な自己肯定感』に勇気づけられたのです。
 『俺はすごい』『俺が一番』『俺は強い』などなど、ビッグマウスであることは初期のラッパーの必須条件でした。もちろん、いまでもその傾向は引き継がれていますが、当時は「ゲーム」の一環として、それがもっと大げさだったように思います。つまり、偉そうな口を叩くことが、ラップ・ミュージックを魅力的に感じさせていたわけです」

 


「センス」だの「コツ」だの「オリジナリティ(独創性)」だの、借りてきた猫のように大人しい言葉たちとは打って変わって、この文章には筆者の息づかいと興奮が感じられます。
私自身がラップ・ミュージックについて馴染みがあることもあり、ラップの良さを再確認させる言葉にとても共感します。


こんなに生き生きとした文章を書けるのに、ここまでの171ページはいったいなんだったのか。
焼き直しされまくった就活本のような、使い古されたあのぺらっぺらの言葉たちは。
全ページ音楽がらみの話でいいから、筆者の肉声で語られる文章が読みたかったです。

 


「論理国語」が支配する世界


この本に書かれている、ネットの記事をコピペしたような無味乾燥の文章を読んでいて、気づいたことがあります。


現在、高等学校の学習指導要領が改訂され、国語の科目が「論理国語」と「文学国語」の選択制になるため、文学が軽視されている! という意見が上がっています。


一応、現在の「国語総合」にあたる「現代の国語」という科目が必修科目として新設されるます。
しかし、この「現代の国語」という科目は、従来の「国語総合」とは違い、文学的な内容を含んでいません。


たとえば、「現代の国語」の「読むこと」の指導事項における「構造と内容の把握」という事項では、


 文章の種類を踏まえて、内容や構成、論理の展開などについて叙述を基に的確に捉え、要旨や要点を把握すること。


を、目標にしています。


次のページにある「精査・解釈」の事項では、


 目的に応じて、文章や図表などに含まれている情報を相互に関連づけながら、内容や書き手の意図を解釈したり、文章の個性や論理の展開などについて評価したりするとともに、自分の考えを深めること。


が、目標になっています。
「図表からの解釈」など、完全に説明文の範疇です。
選択科目にある「文学国語」を選ばなかった場合、生徒が文学作品に触れる機会はほぼなくなってしまうのでしょう。
古典で少し触れるくらいでしょうか。
(正直、古典は訳すこと、古語文法を教えることだけで手一杯で、作者の思想や登場人物の心情まで掘り下げることはかなり難しいです)

 


話を戻しますと、この本を読んでいて思ったのは、「『論理国語』しか読んでこなかった人の文章ってこんな感じなのでは?」ということです。


この本の文章は間違っているわけではありません。
筋もしっかり通っています。
ただつまらないだけです。


わかりきったことをよくある言葉で説明し直しているだけなので、「ふーん」としか思えないのです。
個人の体験から得られた血の通った言葉も、たぎるような気持ちも書いていないので、理解以上のものを得られないのです。
心が動かされることがない。

 


筆者の印南氏は、小説ももちろん読んでらっしゃいます。
お気に入りの作者も、本書に出てきます。
しかし、メインの仕事は「ライフハッカー」「東洋経済オンライン」「マイナビニュース」などに実用書やビジネス書の書評をあげることです。
つまり、論理国語にどっぷりと浸っているわけです。


論理国語だけで育った人間の文章がどれだけ退屈でつまらないものか。
退屈でつまらないものに、誰が魅力を感じるのか。
そんな文章を書く人たちを大量生産して、どんな未来があるというのか。

 


グローバル企業の幹部たちはロイヤルカレッジオブアート(美術系大学院)に勉強しに行っているというのに!
(「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?」山口周・光文社新書より)


論理は一方通行であり、迷うことはありません。
効率を追い求めることと同じく、ゴールが明確です。
明確なゴールに向けての競争で勝てるのは、たった一人です。
一番質がよくて一番安いやつが一番売れる。


でも、実際はそうではありません。
使いにくかったり、値段が高かったりするものでもヒットします。
フェアトレードなど、売り手側の意思やストーリーが伝わればファンがつきます。

 


話が脱線しました。
世界がアートや感性の世界を重視しているというのに、日本の教育はそこをぶった切って実学のみに舵をとろうとしている。
「論理国語」が支配する世界、私は反対です。
 くっっそつまんねえもの。

 


まとめ


・『書評の仕事』という本は、ネットのコピペレベルの内容です
・ P173からの音楽がらみの話は筆者の姿が見えて、面白いです
・「論理国語」が支配する世界は、味家のない非常につまらない世界だ

 


もちろん、本は一人では作れません。
編集者の人は、原稿の時点で「おもしろくねえな……」とは思わなかったのだろうか。
我が家の本棚にはワニブックスPLUS新書は無かったので、今度買うときは中身を要チェックだな。
お金は大事です。

 


〈参考図書〉


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・世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」
 山口周 光文社新書


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・世界観をつくる 「感性×知性」の仕事術
 水野学 山口周 朝日新聞出版


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・D2C「世界観」と「テクノロジー」で勝つブランド戦略
 佐々木康裕 ニュースピックスパブリッシング


世界のエリート(大企業の幹部)が美意識を鍛えるのはなぜか、という疑問を切り口に、資本主義社会の到達点に達した私たちが今後は何を目指すべきかということを教えてくれます。
「世界観をつくる」のほうは、「ストーリー作り」をテーマに、商品開発や企業のビジョンなどについて語っています。


D2C=Direct to Consumer(ダイレクト トゥ コンシューマー)
直接消費者に届ける、という企業活動についてです。「世界観をつくる」という本の内容の実践例みたいな感じで、たくさん事例が載っています。

 


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・AIに負けない子どもを育てる
 新井紀子 東洋経済新報社


「AIvs教科書が読めない子どもたち」の続編にあたる本です。
文科省が身につけさせたい「契約書などの実用的な文章を読む力」の鍛え方についてのヒントが載っています。


文章を読むスキルには、「書いてあることを、飛ばしたり勝手な解釈をつけたりせず、そのまま読む」というものがあります。
これはリーディングスキルテストというテストで計れる能力です。


この本の冒頭部で紹介されているリーディングスキルテストの問題を引用します。


・幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。
・1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。


以上の二文は同じ意味でしょうか。


ん? と思って読み直した人は、主述の関係やてにをはの違いがもたらすニュアンスを理解して文を読んでいる人といえるでしょう。
もちろん、上記の二文は意味が違います。
しかし、教育現場ではこういった、似た表記だが意味は異なる文章を書いてきて、「キーワードとなる語は全部合っているから、部分点が出るはずだ」などと考える生徒が少なからずいるそうです。
ちなみに、中学生の正答率は57%だそうです。

 


・わたしがマグロを食べた。
・わたしがマグロに食べられた。


上記の文は三文字しか違いませんが、意味は全く異なります。
短文なら理解できても、長文になったり難しい単語が出てきたりすると、途端に理解が追いつかなくなってしまう。
単語を適当に拾って、頭の中で好き勝手につなげてしまうのです。
これが、ただ本を読むだけでは国語の成績が上がらないという証拠です。

 


文学国語においても論理国語においても、ただ文章を読むだけでは読解力は上がらないのです。
(なので、いくら論理国語の時間を増やしたからといって、契約書が読めるようになるのかなあ……と、私は思います。
 契約書こそ、てにをはが大事だと思うので。)

 


個人的には視写と音読にヒントがあるのでは? と考えていますが、まだまだ勉強不足なのでここでは語りません。
最後に、ヒントになりそうな書籍を一つ紹介して、終わります。


・視写の教育ーー〈からだ〉に読み書きさせる
  (シリーズ『大学の授業実践』)
 池田久美子 東信堂
 
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