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芥川があこがれたものは何か?

 

芥川があこがれたものは何か?
芥川龍之介『蜜柑』と志賀直哉『流行感冒』の比較からー


比較図書
蜘蛛の糸杜子春』より『蜜柑』
 (芥川龍之介 新潮文庫


小僧の神様・城の崎にて』より『流行感冒
 (志賀直哉 新潮文庫


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〈はじめに:
  芥川龍之介があこがれたものは何か?〉


芥川龍之介谷崎潤一郎との文学論争の中で発表された文学評論『文芸的な、余りに文芸的な』の中で、芥川は志賀直哉を絶賛している。


たとえば、


志賀直哉氏は僕等のうちで最も純粋な作家
志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きてゐる作家の作品である
・人生を立派に生きることは第一には神のやうに生きることであらう
志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家である。
志賀直哉氏は描写の上には空想を頼まないリアリストである。その又リアリズムの細に入つてゐることは少しも前人の後に落ちない。若しこの一点を論ずるとすれば、僕は何の誇張もなしにトルストイよりも細かいと言い得るであらう。


(『文芸的な、余りに文芸的な』より抜粋)


要約すると、芥川から見た志賀直哉は人生を立派に生きている純粋で清潔な作家であり、それこそ神のように人生を立派に生きている。
また、小説の上ではリアリズムに徹し、曖昧な空想に逃げることもない。
文体におけるリアリズムの微細な表現は、トルストイよりもすごい。


超訳すれば、「志賀直哉は人生を堂々と生きていて羨ましい。自分はすぐに空想の世界に逃げてしまうが、彼は自分の人生に対しても、リアリズムで作られる自身の小説世界に対しても、なぜ臆せず堂々と立ち向かえるのだろうか?」といったところだろうか。

 


古典から題材を取り、物語の創作を主とする芥川龍之介と、私小説を主軸とする志賀直也の作品は違いすぎて比較が難しい。
だが、基本のストーリーが同じ小説を比較すれば、両者の違いがはっきりと見えてくる。
芥川龍之介志賀直哉の文学のどこに惹かれたのか?
志賀の何をうらやましいと思い、自分には何が無いと嘆いたのか。
芥川『蜜柑』、志賀『流行感冒』の比較を通して、芥川の憧れを具体的に解剖していきたい。


また、芥川は人生の後半において、「話」らしい「話」のない小説への憧れをみせた。
そのためか、晩年は自分で自分の作品を否定した。
芥川の晩年の作品『歯車』では明確なストーリーはなく、主人公の心理描写をひたすら書き連ねるといった作品作りをしている。
これらの事実も合わせて考えると、芥川があこがれたものがより見つけやすいだろう。

 


〈研究方法〉


1.なぜ、『蜜柑』と『流行感冒』を比較するのか?


この二つの作品はストーリーの大筋が同じであるため、比較がしやすい。
以下、両作品の共通点である。


・ストーリー構成
 (身分の高い男性主人公が身分の低い少女に対し、はじめは嫌悪感を抱いている。
  しかし、作中の出来事をきっかけに少女に対する認識が変わり、少女に好感を持って終わる)


・一人称視点
  (主人公「私」視点)

 


2.作品のあらすじ


※なお、評論の都合上、がっつりネタばれしております。
 気になる方は青空文庫や書店などで作品を読まれてから下記に進むことをおすすめします。

 


芥川龍之介『蜜柑』


ある冬の日暮れのことである。
横浜発の上り列車の二等客席で、疲れた男が列車の発車待ちをしていたら、向かいの席に小娘が乗ってきた。
小娘は13、4歳ほどで、大きな風呂敷包みを抱え、霜焼けの指には三等客席の切符が握られていた。
男はこの小娘を不快に思った。
下品な顔立ちも、垢じみた不潔な服装も、二等客席に三等客席の切符で乗り込んだまま、それに気づかない愚鈍さも。
男は目の前の不快な小娘の存在を意識から抹消しようと、夕刊を取り出す。
だが、夕刊の記事はどれも平凡で退屈で、男の憂鬱を慰めてはくれなかった。
男はあきらめて目をつむり、汽車の揺れに身を任せた。


しばらくして目を開けると、向かいに座っていたはずの小娘が自分の隣に移動しており、しかも窓を開けようと躍起になっていた。
もうすぐトンネルに入るというのに? 男はけげんに思いながらも、小娘が窓枠と格闘するのを突き放したような目で眺めていた。
汽車がトンネルへ入ったと同時に、小娘がいじっていた窓がばたりと開いた。
同時に、トンネル内で凝縮されたどす黒い煤煙が車内へなだれ込んできた。
元々のどを痛めていた男にとって、これはきつかった。男は激しく咳き込んだ。
小娘は咳き込む男に目もくれず、大きく開いた窓から身を乗り出し、毅然と前を見すえている。
男はこの小娘を叱りとばして窓を閉めさせようと思ったが、咳が治まったときには汽車はトンネルを抜け、あるさびしい踏切にさしかかろうとしているところだった。
男はその踏切に、背の低い男の子が三人ほどいるのを見つけた。
男の子たちは汽車を見るなり、何か大声で叫び始めた。
その瞬間だった。
窓から身を乗り出していた小娘が、懐から暖かな色を降らせた。
日の色に染まった蜜柑が五つ、六つ、汽車を見送る男の子たちのもとへと降りそそいだ。


男は理解した。
この小娘は家を出て、これから奉公先へと赴くのだろう。
そして、自分を踏切までわざわざ見送りにきた弟たちのために、蜜柑を降らせ、その労に報いたのだろう。


小娘は再び男の向かいに腰を下ろした。相変わらず、その手には三等切符が握られている。
男はまるで別人でも見るような目でこの小娘を見た。
男の心には、ほがらかな気持ちがわき上がっていた。
そして、彼の心を支配していた疲労と倦怠、退屈な人生を、束の間忘れることができた。

 


志賀直哉『流行感冒


最初の子どもを亡くした男は、二人目の子:佐枝子(さえこ)の育児に対して神経質になっていた。
彼は妻とまだ赤ん坊の佐枝子、二人の女中(石、きみ)の五人で暮らしており、女中たちにも体調管理ついて口うるさく行っていた。


とある秋、町では流行性の感冒(カゼ)が猛威を奮っていた。
毎年女中たちを見せにやっていた夜芝居の興業も、今年は感冒が流行っているため行くのを禁じた。
そんな中、女中の石(いし)が「薪が無くなったので知人の家にもらいに行く」といったきり、夜遅くまで帰ってこない。
結局、深夜1時くらいまで石は帰ってこなかった。


これは夜芝居を見に行ったのではないか?
男は石を問い詰めるが、石はきっぱりとこれを否定した。
あまりにもはっきりした否定に、男もそれ以上聞けなくなってしまった。
だが、どうも腑に落ちない。


石に嫌悪感を抱いた男は、石から無理やり佐枝子を取り上げる。
いたたまれなくなった石はきみを連れ、逃げ出してしまう。
女中がいなくなった家は途端に不便になった。

 


その日の夕方、石と石の母親ときみの三人が家へ来た。
石の母親は娘の非礼をわび、暇を出してもらってもかまわないという。
男も石を追い出すつもりだった。
だが、妻に懇願され、すんでのところで踏みとどまることにした。

 


結局のところ、石は芝居を見に行っていた。
それだけでなく、自分の母親に「きみと二人で芝居に行った」と嘘を重ねていた。
(きみは深夜まで家で作業をしていたので、芝居を見に行くのは不可能である)
自分の嘘に他人を巻き込んで平然としている石に対して、男はますます嫌悪感を募らせた。

 


それから三週間ほど経ち、流行感冒の猛威もだいぶ収まってきたころ。
警戒心の解けた男は、離れの庭を整備すべく、家に植木屋を呼んだ。
男は数人の植木屋とともに共同で作業をした。
男は流行感冒にかかってしまった。感染源は植木屋たちだった。


流行感冒は男から妻へと伝染した。
そして今度はきみが病に倒れた。
男はきみを一端実家へと帰したが、きみの容態はよくならず、肺炎へと悪化してしまう。
ついには佐枝子も罹患してしまい、家の者で健康なのは石だけになってしまった。

 


石はよく働いた。
人手が足りないので昼間はいつもの倍以上働かねばならないのに、夜も佐枝子の世話をした。
佐枝子は寝付きが悪く、寝かしつけてもすぐに起きて暴れ出してしまう。


男が夜中に佐枝子と石がいる部屋をのぞいてみると、石は横にもならず、座ったまま目を閉じて佐枝子をあやしていた。
男は石に好感をもった。


男はあれほど皆に体調管理について口うるさく注意をしておきながら、自分が病を家に持ち込んでしまった。
一方、暇を出すと言われた石だけが感冒にはかからず、皆の世話をしている。
男は石に皮肉の一つでも言われるのではないかと恐れたが、石にそんな素振りは全くなかった。

 


石はただ一生懸命に働いた。
その頑張りは、以前の失態を挽回しようという下心のあるものではなく、ただ皆が困っているからできるだけ働こうという気持ちから出ているものらしかった。


…長いこと楽しみにしていた芝居があり、どうしてもそれに行きたかった。
だから嘘をついて見に行った。
(その嘘はだんだんとこんがらがっていってしまったが)
芝居を見に行きたいという思いからついた嘘と、皆が困っているからできるだけ働こうという気持ちは、石の同じところから出てきたように思われた。

 


一ヶ月ほど経ち、肺炎になったきみが回復して戻ってきた。
それまで非常によく働いていた石だが、以前と同じ働きぶりに戻ってしまった。
だが、男は石に対して悪い感情は持たなかった。
失敗して主人に叱られることもあるが、石は不機嫌を長引かせて周囲を困らせることはしない。
叱られても、三分も経てば普段通りに接することができた。

 


それからしばらくして、石に結婚の話が来た。
結婚の準備のために石が実家へと帰ると、家の中は大変静かになった。
男は妻に言った。
「石が嘘をついて芝居を見に行ったとき、追い出さなくて良かった。もしあの時追い出していたら、お互い嫌な主人と嫌な女中という形で頭に残ることになった」
妻もしみじみと返した。
「石は欠点もあるけれど、良いところもたくさんありますからね」

 


一週間ほど経った頃、石が急に家に来た。
突然の訪問に驚いた男が妻にわけを聞くと、石は妻からの「嫁入りまでの間で機会があればいつでもおいで」というはがきをもらい、すっ飛んできたそうだ。


石は今、きみと一緒にかつてのように働いている。
もうしばらくしたら、石は嫁に行く。
男は石の結婚が幸せなものであるよう願った。

 


〈比較結果〉


あらすじの文量からも分かるとおり、『蜜柑』はたったの6ページ、『流行感冒』は29ページの上下編構成と、作品のボリュームは大きく異なる。
ページ数が多いぶん、『流行感冒』のほうが人物描写が細かく書かれており、立体的な人物像を描きだしている。

 


1.『蜜柑』の良さ


『蜜柑』の良さはストーリーの切れ味にある。
男の小娘に対する認知の反転(嫌悪から好感へ)はとても鮮やかである。


また、色彩の効果もすばらしい。
冬の日暮れと男の感じる退屈さのイメージから連想される灰色。
列車の内装はとくに言及されないが、窓の外の風景は「うす暗いプラットフォオム」という寂しく生気の無いイメージで描かれている。


『蜜柑』の少女は色のあるものを身につけてはいるが、「垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻き」や、「三等の赤切符」など、ポジティブなイメージはない。
だからこそ、弟たちのために放たれた「心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑」がひときわ目立つ。


冬の寒空と蜜柑の色(暖な日の色)との鮮やかな対比、男の中の灰色でくすんだ世界に彩りが加えられたことがより際立つのだ。

 


『蜜柑』のストーリーは、少女の行動により、男の世界が変わるというシンプルなものである。
無駄のないたった6ページの短編だからこそ、男の気持ちの変化がはっきりと分かる。
爽やかな余韻も感じる。
だが、それはあくまで「物語の中」だからだ。

 


2.『流行感冒』の良さ


『流行感冒』のストーリーを乱暴にまとめると、嘘つきの女中を解雇しようとしたが妻に懇願され、解雇を踏みとどまった。その後、自分たちが病気になってしまい、嘘をついた女中はすばらしく働いてくれた…という話である。


人間には良いところと悪いところ、両方あるから一面だけを見て判断してはいけないねという教訓じみた話にまとめることもできるが、この話の肝はそこではない。
どちらかというと、この話は「人間に二面性などない」ということを言いたいのではないだろうか。

 


以下、家族が皆感冒にかかってしまい、石が一生懸命働いてくれたことに対する主人公の男の言葉である。


「普段は余りよく働く性(たち)とは云えないが、想うに、前に失策をしている、その取り返しをつけよう、そう云う気持からではないらしかった。もっと直接な気持かららしかった。私には総てが善意に解せられるのであった。私たちが困っている、だから石は出来るだけ働いたのだ。それに過ぎないと云う風に解(と)れた。長いこと楽しみにしていた芝居がある、どうしてもそれが見たい、嘘をついて出掛けた、その嘘が段々仕舞には念入りになって来たが、嘘をつく初めの単純な気持は、困っているから出来るだけ働こうと云う気持と石ではそう別々な所から出たものではない気がした。」

 


自分がやりたいことのために嘘をつくことも、病気の人たちのために一生懸命働くことも、その根っこにあるものは同じである。
だから前の失策を挽回するためにがんばろうという下心などないし、叱られたことに対していつまでも根に持つという陰険さもない。


人の良いところも悪いところも、その源は一つであり、見る方が勝手に良い面と悪い面に切り分けているだけである。


言われてみればまあそうかと納得するが、それを腹落ちさせるだけの技量が志賀の作品にはある。
美点も欠点もある、これこそが人間だと思わず膝を打ってしまうのだ。
志賀が描く人間はリアリティがあり、親近感があり、ほんとうに身近にいそうなのだ。


『蜜柑』はあっと言わされるほどに展開が鮮やかだ。
いっぽう、『流行感冒』にはそういった驚きはない。あるのはリアリティと人間だ。

 


『蜜柑』の少女より『流行感冒』の石のほうが圧倒的にリアリティがある。
石の良いところと悪いところ、両方が見えるからこそ、男が石に対して抱く好感の深さが分かる。
もちろん、紙面の都合ではあるだろうが、もし『蜜柑』の少女について長々とマイナスな面まで語ってしまったら、少女に対する男の感動は薄れてしまうだろう。
言い換えれば、『蜜柑』は少女の悪い面が見えないからこそいいのだ。
善人しかいないおとぎ話の世界にある感動なのだ。

 


〈まとめ〉


文芸的な、余りに文芸的な』から再度引用するが、芥川は小説の美点として、「構成的美観」を挙げている。


「デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は『話』の上に立つものである」


上記の言葉から分かるように、芥川はしっかりとした骨組み(ストーリー)を持ち、緻密に構成された小説を目指した。
無駄をそぎ落とし、一分の隙も無く組み立てることで、たった6ページの文量で読者をシンプルに感動させた。


一方、志賀の作品は「読者を感動させる」とか「ストーリーに読者を引き込む」とか、そういった明確な目標のもとには書かれていないと思う。
はっきりとしたストーリーはなく、細やかな日常の描写を重ねていく。
その積み重ねの中で織り上げられた人物像は、ガツンとくる派手さは無いものの、じんわりと染み渡るように心に浸透する。
物語の世界であっても、キャラクターにリアリティがあるのだ。

 


もちろん、これは「どちらが優れているか?」という比較ではない。
無駄のない設計を求めることも、空間に遊びを残すことも、どちらもすばらしいことに変わりはない。

 


ここからは私の想像である。
芥川は志賀の文体に憧れ、自身のモットーであった「構成的美観」を捨て、「話」らしい「話」のない小説に挑戦した。
一方、志賀は自身のスタイルを特に変容させることはなかった。
(私の調査不足により、間違いがあったらすいません)


もし、お互いがお互いのスタイルに憧れ、志賀も芥川のスタイルを真似ることがあったなら、芥川はそこまで神経衰弱にはならなかったのではないか。
まあ、志賀は自分のスタイルに疑いを持たぬ人だったから、芥川はより「神のように自分の人生を立派に生きている人」として志賀にあこがれたのかもしれない。


不平等なあこがれが、芥川を破滅に導いたのかもしれない。