善とか悪とか正しいとか間違ってるとか、私たちはカテゴリ分けから自由になるべきなのかもしれないーー羅小黒戦記を見て
「アクションがすごい中国製アニメ」という知識だけで見に行った羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)。
ぶっちゃけ、今の中国アニメってどんなレベルなんだろう? お手並み拝見☆ というやや上から目線な気持ちで見に行ったのですが、いい意味で期待を裏切られました。
すんばらしく面白かった!
※ここからは若干のネタバレを含みますので、未視聴の方、新鮮な気持ちで羅小黒戦記を楽しみたい! という方はご遠慮ください。
善とか悪とか正しいとか間違っているとか、
私たちはそんなカテゴリ分けから自由になるべきなのかもしれない
シャオヘイの「フーシーは○○○○○なの?」という問いに対するムゲンの返答。
あの台詞は言い換えると「自分で考えろ」ということなのだと思う。
私はこの作品を「中国のアニメーション映画」という視点で見ていたので、共産主義(平等を是とする全体主義)の国の作品からこんな台詞が出てくるということ自体が驚きだった。
フーシーの願いである、自分の故郷を取り戻したいということ。
しかし、そこには既に多くの人間が住んでいて、巨大なビルが林立している。
住み着いている多くの人間を追い出し、かつての故郷をとり戻すのは到底不可能だ。
無理な願いにあがくフーシーに対し、妖精たちは要求する。
「人間と共生せよ」と。
すでに人間の中に混じり、人間と関わりながら楽しく日々を送る妖精たちもいる。
だが、「共に生きる」という美しいワードにだまされてはならない。
結局、それは強者からの強制であり、意見の押し付けだ。
「順応出来ないものは、滅びよ!」
そんな強者からの傲慢な命令でしかないのだ。
人間との共生を望まず、自分の故郷を取り戻したいと願うフーシーに対して、「人間と仲良くしろ」と要求すること。
それはつまり、弱者に我慢を強いて、言うことを聞かせることに他ならない。
弱者の意見を押しつぶし、強者の希望を押し通す。
……その結果何が生まれたのか、私たちはもう知っている。
弱者を虐げ、こぼれた利益を強者が搾取する。
そうして積み上げられたのが、天地ほどの差が開いた格差社会だ。
「俺はここがいい」というフーシーの願い。
それをわがままだと決め付け、断罪するのは強者の身勝手だ。
強者の論理に従わぬから、強制的に排除するのだ。
願いに優劣も、善悪もない。
ただ強者の願いは叶えられ、弱者の願いは切り捨てられる。
弱者が我を通すこと。
強者の暴力をかいくぐり、弱者が願いを叶えること。
その難しさ。そして、尊さ。
これを尊いと言わずしてなんという。
願いの成就はいつだって尊いものなのだ。
―・-・-・-
ラストシーンは「自分で考えろ」というメッセージに対するシャオヘイの答えなのだろう。
第一印象の悪者のイメージではなく、自分で考えて、自分の見方で、自分の決定をした。
……しかし、大丈夫なのか?
深読みをすれば、なのだが、この作品は弱者が我を通すことを表現している。
つまり、強者への抵抗であり、弱者の勝利を示唆している。
(大きい声では言えないけれど、左上の……あそこらへんとか……)
(余談だが、私がここまでこの作品に感銘を受けるのは、ダブルオーの映画で納得できなかったという経験があるからだと思う。
「人類VS謎の宇宙生命体!? どうやって決着つけるんだ!?」と、わくわくしながら見に行ったら「みんな進化しよう!」という結末で……。
ガンダムって、様々な陣営の苦悩や理想を描き出す群像劇なのに、単一の答えに帰結するのか……ということで、なんだかモヤモヤしたのだ)
あー、おもしろかった!
そして我を通す櫻井孝宏さんボイスの、悲痛さというかなんというか…!
もうだめ、泣いちゃう。
善とか悪とか正しいとか間違っているとか、そんな下らないカテゴリに振り分けて、一方をヨイショし、一方を断罪する。
幼児のように徒党を組んでケンカをふっかけるのはもうやめにするべきだ。
一つの個として、自分自身で考えるべきなのだ。
参考作品
・映画『羅小黒戦記』
・映画『機動戦士ガンダム00―A wakening of the Trailblazer―』