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教員採用試験合格記 その二 面接に向き合う


3 面接に向き合う

死に場所(目標)を見つけ、私はついに決意した。
面接という最大のウィークポイントに切り込むことを。
なぜなら、二次試験落ちを三度も繰り返していたからです。

二次試験は集団面接と個人面接のみ。
私の足を引っ張っていたのは面接なのです。
面接に向き合わない限り私に未来はない。
頭ではわかっていたけれど、そこに足を踏み入れるのはなんとなく避けていました。


面接で望まれるものって何でしょうか。
自信に満ち溢れていて、キラキラしていて……とは言いますが、講師やっててそんな人っているんでしょうか。

 

先生と呼ばれる立場でありながら、バイトをしないと生きることすらままならない。
本採用の先生が夏休みやゴールデンウィークの予定を楽しそうに話される中、自分はバイトかぁとため息をつく。
体育祭に出ても文化祭に出ても給料は出ない。

経済レベルの差、待遇の差。
しかし、仕事内容は変わらない。
頑張っても頑張らなくても時給は変わらない。
未来の見通しは立たず、先生ではあって先生ではないという自己矛盾を抱え続ける。

 

(もちろん、パート先生として誇りを持って働いていらっしゃる方も大勢いらっしゃいます。
春夏冬と子どもたちと同じスケジュールで休暇がある講師という仕事は、小さなお子さんがいらっしゃる方にとって、ベストスケジュールな仕事ともいえます)


日本の教育教育界はやりがい搾取で成り立っている。
私は講師という低待遇を甘んじて受け入れている。
みっともなくしがみついている。


こんな状態で自信を持ってキラキラの笑顔で面接で希望を語る……なんて、私にとっては土台無理な話でした。
そこで私は発想を転換させることにしました。

 

私が自信を持つのではなく、「自信を持った私っぽいキャラクター」を作り出し、それを私が演じれば良いのではないか、と。

自分を見つめようとしても、長年の経験から自動的にネガティブバイアスがかかってしまう。
自分をまっすぐ見つめることができないのなら、自分とよく似たキャラクターをデザインし、その設定を作り上げていくことで、客観性を持って自分自身を見つめることができるのだろうではないだろうか。

 

というわけで、仮キャラクターを創出することにしました。
自分に似たイラストを書き、その「彼女」の長所・短所、「彼女」が目指しているもの、大切にしているものをどんどん書き込んでいく。
「彼女」が好きなものは何なのか、許せないことは何か、子供たちにどんなふうに育って欲しいのか。
そう思うに至った体験は何なのか。

キャラクターを作り上げながら、自分自身を掘り下げていく。
まるで自分の半身を見ているような気持ちでキャラクター設定を固めていきました。

個人的に、このキャラ付け作業はやって良かったと思います。
ぶっちゃけると、役に立ったかどうかはわかりません。

 

ー・ー・ー・ー

 

少し話を脱線させますが、皆さんは「自分探し」をしたことはありますか?
私も高校~大学生の時、自分探しという暗渠に迷い込みました。
私とは何か? ということを考え、軽くパニックになった経験があるのです。


私はよく「変な子」「面白い子」って言われていました。
私自身、「変」「面白い」と言われるのが嬉しくて、次第に自分が選択をするときに、「これは変な子・面白い子が選ぶものだろうか?」というふうに、何かを選ぶときの基準に「他人からの視点」を入れるようになりました。
自分の望みを差し置いて、「他者からどう見えるか」という観点に意思決定の基準をスライドをさせたのです。


私は人に「面白い」って思われたい。
実感として、私の選択は他の人に「面白いね」「なぜそれを選んだの?」と言われることが多かった。
しかし、それは私が選んだ事物に対する偶然の結果であり、誰かに「面白い」と思われたくて選んだものではなかった。
たまたま、私の選択を「面白い」と感じる人が多かっただけのことだ。
なのにいつの間にか、誰かに面白いと言われたくて、それに合わせて選択するようになってしまった。
自分が心から「これがいい!」と思う選択を押し殺して。


誰かにこう思われたいという理想の自分。
その理想と自己が乖離する時、私は引き裂かれるような痛みを覚えました。
誰かに「面白い」と言ってもらえるような理想の自分。
でも、自分の選択を他者が常に「面白い」と感じてくれるかはわからない。

こう思われたいという理想はあるけれど、それを目指すことは果たして良いことなのか?
何かを選択するとき、他人の意思に依存するのが健康的なことだとは思えない。
だってそれは「自分が心から望んだ選択」ではないからだ。

 

ならば、「自分が心から望んだ選択」とは何だろうか。

「自分が本当に心から望んだ選択」って何だろう。
そんな確固たる選択を、私ができるだろうか。
他者からの視点にがんじがらめになって、こんなにブレブレなのに。
もし「他者の視点」や「他者からこう思われたいという欲求」を一枚一枚はがしていけば、何者にもとらわれない純粋な自分が、”本当の自分”が見つかるのだろうか?

 

他人に影響を受けまくり、どこまでがまっさらな自分であって、どこからが他人の影響を受けた”準・私”なのか。
あやふやでどうしようもない”自分”に対して、どのように接していけばいいのだろうか……。
そんな時に出会ったのが、社会学であり、ドラマトゥルギーという考え方でした。

 

「世界は人と人とが役割を演じるドラマである」

 

子どもたちの前では凛とした先生を、職員室ではのんびりした同僚を、SNSではちょとカゲキな趣味垢を。
それぞれ必要な場面に応じ、求められる役割を演じる。
世界は人と人とがそれぞれの場面に合わせて、その場面に合うように、お互いに与えられた役割を演じ合っている。

どの場面を演じるか(誰に相対するか)によって、求められる役割は変わる。
人間は社会的な生き物なので、人と関わらずにはいられない。
場面や出会う人によって演じる役割が変わる以上、確固たる自己・変わらない唯一の自分など存在しないのだ。

 

自己は常に変容する。
目からウロコと言うか、私は自分を「変わっていて面白い子」というふうにキャラ付けして、自分を狭く苦しい場所に押し込めようとしていたことに気づきました。

 

「友達に面白いって言われたい(カッコつけたい)私」
「他の人に面白いって言われる私(理想の自分)を掲げ、それになりたいと行動する私」
「いや、それでいいのか!? と葛藤し、他の人にどう見られるかなんて関係なく、自分の好きなものを好きだというべきだ! と高らかに宣言する私」


そのどれもが私なのだ。

(余談の余談だが、私は他人に対し「○○さんってこうだよね」という決めつけの言葉は言わないようにしている。
 知らず知らずのうちに人に呪いをかけるような言葉だからだ)


この考え方は、生きていく上での息抜きになったというか、私の肩の力を抜いてくれた。
しっかあし!! 面接という「君はどんな人ですか」というのを率直に求められる場では、この懐の広さが仇となってしまうのです。

 

「あなたはどういう人なのですか?」
「場面によって私に求められる役割が違うので、その時々によって私は変わります」

 

そんな曖昧な答えは面接では求められない。
ひとつの方向性を示すという意味でも、今回のキャラ設定作業は役に立ったと言えます。


練習環境と練習方法

 

面接内容や自己像の掘り下げ、アピールしたい人物像などは、自分をキャラクター化することで一定の方向性をもって作り上げた。
後はそれをどう形にするか。アウトプットの練習です。
去年から私は一人暮らしを始めたので、自分だけの思いっきり練習できる環境は手に入れていました。

面接の練習自体は昨年も一昨年もしました。
だが、いつもと同じ練習ではいつもと同じ結果しか手に入らない。
そこで、練習方法もアップグレードすることにしました。

 

今回、練習時に私が付け加えたことは三つ。

1 ひたすら声に出す
2 鏡と友達になるwithバランスボード
3 他の人に聞いてもらう

 

1 ひたすら声に出す

頭の中で考えるときに使う言葉(内言)と、実際に口に出すコミュニケーションのための言葉(外言)は違います。
よく「女の子は頭の中が多動」と言われるのですが、私もそのタイプです。

常に脳内で一人でしゃべっていますし、周囲の人の会話に脳内で相槌を打ったりコメントしたりしているので、一人で黙っていても全然退屈しないのです。
その場で一言も発言していなくても、バリバリ会話に(脳内)参加しているため、自分が全くしゃべっていないことに気付いてすらないこともあります。


そのため、あまり喋らない人だとか、何を考えてるのか分からないとか思われることもあります。

内言と外言の違いはたくさんありますが、面接においての違いは大きく二つ。

1 内言は噛まない→アクシデントに弱い
2 内言はあっちこっちに飛ぶが、外言では一貫性が求められる

1 内言は噛まない→アクシデントに弱い

脳内で適当にしゃべっている言葉は息切れすることなく永遠に続きますが、実際にそれを声に出そうとすると、言葉に詰まってしまったり、助詞が合わさって変な言葉になったりします。
(内言「~だな」+外言「~ですね」=実際の言葉「~だすね」みたいな)

 

変なことを言ってしまったり噛んでしまったり。
声に出す練習をしていないと、些細なアクシデントに動揺し、一旦止まってしまう。
実際に声に出してアウトプットすることで、間違えたり噛んだりしてもすぐに立ち直る練習ができる。
ついでにハキハキとしたゆっくりな口調の練習もできるし、抑揚もつけられるようになります。

 

2 内言はあっちこっちに飛ぶが、外言では一貫性が求められる

これについても1と同様で、実際に口に出すとよくわかります。
内言だと永遠にしゃべり続けてしまうのですが、外言(口に出す)にすると迷走したら止まります。
(話が長くなりすぎて息切れする)

そういう場合は一端止めて、ポイントを確認してから再スタートします。
地道な練習ですが、これも続けることで多少話が脱線してもすぐに本線に戻れるようになりました。


2 鏡と友達になるwithバランスボード

水谷さるころさんの本で、「一人暮らしで誰とも話す機会が無いときは、鏡と話して自給自足をしている」という話が書かれていました。
「鏡と話す」!? えっこいつはかなりヤバイ状態なのでは……と思いましたが、今は考えを改めました。
声を大にして言おう、鏡と話すことは有効であると。

 

なぜ鏡と話すことが有効なのか?

なぜなら、脳は主客を判断できないからだ。

一応、鏡をのぞいたとき、そこに映っているのは自分自身だと私たちは理解することができます。
しかし、それはあくまで脳みそが「鏡に映っている人物は自分だと思え」という命令を下すからです。
その命令はいついかなるときも下されるわけではありません。

脳からの命令が降りてこないとき、私たちは鏡の中の自分を「ただの人物」として認識します。
鏡のなかの人物を自分(主客・主体)だと判断できないため、鏡を見ている自分はその鏡の中の人物をただの他人として認識します。

 

他人が笑えば、私たちの脳内にあるミラーニューロンが働きます。
目の前の人物の行為をコピーし、再現しようとするのです。

自分の笑顔を鏡に映せば、それを模倣しようと自分の表情筋も動きます。
表情筋も筋肉なので、回数をこなせばよりスムーズに笑顔を作れるようになります。

何度も練習するうち、だんだんと鏡の中の笑顔が板についてきます。

 

鏡の中の自分が笑う。
それが嬉しくて、実際の自分が笑う。
実際の順番は逆なのだが、人間のミラーニューロンは素直に仕事をしてくれます。
自然の笑顔をキープし続け、それが癖になればオールOKです。


唐沢寿明さんのエッセイ『ふたり』の中でも、
「オーディションに受からなかったので、白シャツを着て鏡に向かって微笑む練習をした」
というシーンがあります。
「鏡に向かって笑顔の練習をする」ことは、わりとメジャーな練習なのかもしれません。

今回はこれにあるものをプラスすることにしました。
バランスボードです。

 

なぜバランスボードかというと、ちょうどステイホームが流行り始めた頃に運動不足対策の一環として購入していたからです。
これに、テレビ見た千住真理子さんの練習方法をドッキングさせました。
ウルトラせっかちで有名な千住真理子さんは、パワープレートという一秒間に50回の振動を発生させる装置の上でバイオリンを弾き、効率よく体幹を鍛えているそうです。

バランスボードで体幹インナーマッスル)を鍛えつつ、鏡に向かってニッコリと微笑み、ノートを確認しながらひたすら鏡に向かって喋り続ける。

 

「いじめの定義はなになにです、私がいじめ対策として取り組もうと思うのは……あれ、ちょっと長くなっちゃった。おし、もう一回やろ。私がいじめ対策として取り組んでいくのはこれこれです。なぜなら……」

 

こんなノリで毎日15分ほど、鏡の前でバランスボードに乗って面接練習をしました。
志望理由は毎回口に出すようにしました。
途中で話がややこしくなってきたら一旦止めて、何が言いたいのかを「つまり」でまとめます。


ノートをペラペラとめくったり、考え込んで視点が明後日の方向を向いたりすると、たちまちバランスボードが傾きます。
ぐらついた時は壁に手をついて支えたり、ボードから下りたりして、危険すぎない範囲で練習しました。

二次試験前の15日間は毎回やっていました。
この練習はパジャマ姿もできるのでおすすめです。
(服着替えろよって話ですが)


3 他の人に聞いてもらう

2400年前にソクラテスが言った通り、問答こそが真実に至る方法だというのか。
王道ですが、人に聞いてもらう、という工程を経て私の面接は完成しました。

アピールするべき自己像の構築、それを毎日鏡に向かって口に出し、確認する。
それをバランスボードの上で行うことで体幹の強化も図る。
にこやかな笑顔もデフォルトでできるようになってきた。

これだけでも今まで以上にわかりやすい面接にはなりました。


本番の1週間前、ちょうど元カレから連絡があったので、使えるものは親でも使おうと思い、食事がてら面接の練習をしてもらうことにしました。

元彼に面接ノートを渡し、この中から何でも出してくれ、と問題を出してもらう。
志望理由、虐待の定義、理想の教師像などなど……。
自分ではない誰かが質問してくれることのメリットは、追加質問が来るということにあります。
それってどういうこと? そこから何を学んだの? など、追加質問にもしっかりと答えていきます。


そして、学生時代に頑張ったことについて聞かれました。
私は以前から考えていたとおり、美術館巡りだと答えました。

 

なぜ美術館巡りをしていたかというと、三ヶ月にいっぺん某国擬人化漫画のイベントに行くついでに行っていたからです。
せっかく東京・大阪(ビッグサイトインテックス)に行くのに、イベントだけじゃもったいないよなー、あ、私学芸員の資格取ろうとしているし(結局諦めたのですが)そうだ、展覧会に行こう!

……ってな感じのノリで、イベントで遠征するついでに毎回展覧会を2,3個はしごしていたのです。


(私が大学生のときはビッグサイトの東ホール1~3すべてが某国擬人化で埋まっていました。
 某国擬人化、2021年にまたアニメ化しますね!
 そしてびっくりな擬人化が……いや、もともと人間だけど…!)

 

まあ、本当の動機を言うわけには行かないので、面接用に考えてきた回答を言います。
「大学生という自由時間を存分に使い、一つでも多く本物に触れたかったからです」と。

 

追加質問が来ます。
なぜ、本物を見ようと思ったのか? そもそも、本物を見ようという行為にどんな理由が、価値があるのか? と。

(ええ? そりゃ見たいでしょ本物とか、有名作品とか!
 でも、それを見ることで私は何を鍛えていたのだろう……審美眼?
 芸術品のバイヤーを目指していたわけでもないのに?)

私はしどろもどろになりながら必死で思考をめぐらせました。

(美術館巡りで得られた能力……?
 東京・大阪遠征のための資金繰り、計画力、一人旅の度胸……それももちろんあるけれど……)

当時のことを思い出しながら、私は少しずつ言葉をつむぎました。
3ヶ月ごとに美術館に行きまくる中、私が何を得たのかを。

遠征中にどの美術館を巡るかは、チラシやネットを見て決めていました。
そこに載っているメイン作品や有名作家の超大作をチラ見して、いいなあと思うものをピックアップしました。
美術館に着き、実際にその作品たちを目にするまではドキドキです。

そして、実際に作品を目にする。
もちろん、うわさにたがわぬ素晴らしい作品もありました。
10メートルを超える巨大な作品に心奪われ、20分くらいぼうっとしていたこともあります。

しかし、多くの作品は私の網膜を通り過ぎるだけでした。

(うん? あれ??
 私が美術館めぐりで身につけたことって、

  「どれだけ超大作なんてうそぶいていても、
   実際はそうでないことのほうが多い」
 っていう実感……感覚??)

私は「やっぱ微妙だった・すごかった」という判断を下すためだけに美術館に通いまくっていたというのか!?
クイズ番組でマルかバツかの札を挙げるような、そんなつまらないジャッジをするために?

…………いや、待てよ。
順番が逆だ。

私がそんな風に思えるようになったのは、自分の目で多くの作品を見たからだ。
私が自分なりにジャッジを下せるようになったのは、自分の中に価値観の積み重ねができたからだ。


多くのファンをもつ作家の傑作でも、何々派の頂点だと言われても、私にとっては
「……うん。まあ、悪くはないけど……」
としか思えないものもあった。
また、
「何だこの作品!! すっごくいい!!」
そう思って物販コーナーに行ったら、私が感動した作品はグッズどころかポストカードにさえなっていない、ということもあった。
(はあ? なんであの作品がポストカードにすらなっていないわけ??
 ここの連中の目は節穴か?)
と、心の中で暴言を吐いたこともありました。

 

何が言いたいかというと、何を良いと思うか、何を嫌だと思うかは個人個人それぞれの価値観の違いであり、そこに優劣はない。
大人気作品といえども、たまたまそれを好きと思う人が多かっただけで、自分がその作品を好きになるかどうかとは関係ない。

 

世間の評価と自分の評価が一致しない。

そんなのは当たり前のことなのだ。
何百もの作品を通り過ぎることで、私はそのことを実感として身体に刻んだ。

 

けれど今の時代において。
世間の評価とは関係なく、自分が好きなものを好きだとを言うことに、どれほど勇気がいるだろうか。

 

テレビ、インターネット、SNSを通して、世間の声は常時音量マックスで流されている。
誰が人気で、どれが一番で、何をするべきだと、耳をふさいでも、そこかしこから絶え間なく聞こえてくる。
そんな中で自分の感性を守ることの、なんと難しいことか。

何かを好きだと思っても、世間は大声で

「もっといいものがあるぞ!」
「何だそれ? 誰もそんなものの話はしていないぞ」
「こっちのほうが絶対おもしろいよ!」

と、けしかけてくる。
そんな中で自分の心に灯った「好き」という小さな炎を守り続けるのは、とてつもなく難しい。

 

ああそうか。


私が美術館巡りを重ねて得たものは、
静かな場所で作品と向かい合い、少しずつ積み重ねて行ったものは、
幾層もの価値観の積み重ねが、私に与えてくれたものは。

私の感性を、気持ちを、好きなものを好きだと言いたい心を守り、支えてくれる、自分への自信だ。
そしてこれこそが、今の子どもたちに一番必要なことではないだろうか。


……これだ!

点と点、過去と未来、自分と世界がつながった瞬間でした。


私はもう一度志望動機を構築し直しました。
私が育てたいのは、子ども達の感性であり、私のするべきは、彼らが自分の心に向き合えるよう、サポートすることであると。


感性は酷く脆い。
常に風前のともし火だ。
家族の言葉、友達という同調圧力、これが正解だといわんばかりのメディアの喧伝。
嵐のように吹き荒れる情報社会の中で、自分の感性のろうそくを灯し続けるためには、自分の「好き」と「きらい」を積み重ね、価値観の層を厚くしていくことが大切だ。
自身の価値観の積み重ねが、自信を作っていくのだ。

 

ー・ー・ー・ー


面接の時、面接官の方が「あなたは生徒の感性を大切にしたいのですね」と、そう応えてくれたとき。
自分の気持ちが伝わったという、かつてない手応えを感じました。


色んな回り道をしましたが、また新たなスタートラインに立つことができました。
今回、私にとってキーポイントとなったのは、


「自分のブレなさはどこから来ているのか?」

でした。

「私はブレない性格なので、○○できます」ではなく、
「私のブレない性格は、□□からきています。なので、□□は子どもたちにとっても大切だと思います」
と、自分とクライアント(子どもたち)に共通点を持たせられたのが勝因かなと思います。

自分ひとりではこのことに気づけなかったこと。
そして、元カレに助けられたというのも若干悔しくはあります。
ま、一人ではできないこともあるもんね!

 

【参考図書】

 

 

 

ふたり

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