今日を摘む

ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

いい文章とは? ーー北方謙三先生の小説より

せんせいのなつやすみ。7日目。

なつやすみといっても、平日はしっかり仕事してます。
まあ、定時で帰れるようになっただけでもありがたいんですけどね。

今日は文学評論です。
このブログの題材は気まぐれシェフのアラカルトみたいなものなので、一貫性はゼロです。
しっかり振り落とされないようについて来てね!

「小説とは文体です。
 文体とは比喩です」
(『職業としての小説家』村上春樹新潮文庫より)

 

 

村上春樹さんのこの言葉を読んで以来、比喩にこだわるようになりました。

(ちなみに、比喩とは「たとえば・まるで~~のようだ」という形で、何かを別のモノでたとえる表現技法のことです)
小説を読んで面白い比喩に出会えばドッグイヤー(本の角を折ること)をつけますし、自分が書き手に回ったときは、「これって何にたとえたら分かりやすいかな?」というのを考えます。

比喩のメリットとは何か?


それは、

「曖昧なものを曖昧なまま伝えることができる」こと

です。

私の好きな比喩で、

「その食堂の雰囲気は特殊な機械工具の見本市会場に似ていた」
(『ノルウェイの森 上』村上春樹講談社文庫)

というのがあります。
食堂、というのは、ヒロインの直子が暮らしている精神病患者専用の療養施設の食堂です。
静謐でいて、でも少しざわめきがあって、落ち着かない。
具体的な文章にしてもなかなか伝わらないこの微妙な雰囲気を、比喩はいとも簡単に伝えてしまうのです。

ほかにも、比喩は想像力を使うので、読者を立ち止まらせることができます。
さらっと流せないんですよね。比喩は。

さらっと流しても、思わず後ろを振り返ってしまう。
比喩は読者の視線をコントロールできるわけです。


比喩がほとんどないのに面白い、北方謙三先生のご本。

比喩は小説において大きな役割を果たしている。
しかし、比喩がなくても心に残る小説は書ける。

ここで紹介したいのが、北方謙三先生です。
北方謙三先生の小説には比喩がほとんど出てきません。
なぜ、比喩をほとんど使わないのに北方先生の小説は面白いのか?

題材やストーリーはもちろんですが、私は、北方先生の小説の肝は「セリフ」にあると思います。

「俺は、あの一枚の絵で、多分、一生大丈夫です。なにが大丈夫かって、自分じゃ説明できませんが」
(『抱影』北方謙三講談社文庫より)

あの一枚で、もう十分だ。


そんな作品にあなたはもう出会いましたか?

私は絵画ではまだ出会っていません。
でも、音楽なら出会っています。

ムソルグスキー作曲、『展覧会の絵』。


一番好きなのはオーケストラバージョンです。
山下和仁さんのギターバージョンも、涙が出そうなくらい優しい辻井伸行さんのピアノも、「自由そのもの」を体現したようなエフゲニー・キーシンの演奏も好きです。

もし、私が急に不治の病に犯されたとして。
見知らぬ人に道端で突然刺されたとして。
言葉にできないような未曾有のなにかが起こって、暗い孤独の中で一人息絶えることになったとしても。

あのプロムナードが私を迎えにきてくれるなら、怖くはない。

そんなふうに思えるんですよね。


「あの一枚で、もう十分だ」


きっと、そう思えるものを私たちは誰もが心の中に持っている。

北方先生のつむぐ言葉たちは、私たちの心の奥底にあるものを引き出してくれるのです。


「いい文章」とは何か?

村上春樹さんが大切にしている「比喩」。
北方謙三先生のつむがれる「セリフ」。

共通するのは、「心に想起させる」という点です。

「比喩」はイメージを与え、北方先生の「セリフ」は深層心理からイメージを引き出す。
与えるか、本人の記憶や無意識から引っ張ってくるか。
方法は違えど、人の心にイメージを思い起こさせるものが感動を呼ぶのでしょう。

そんなことを考えながら、私は今日も文章を書いています。

【今日のおまけ】


私の大好きな『展覧会の絵』たちです。

 

 

 

 

展覧会の絵

展覧会の絵

Amazon