感動>>>>(越えられない壁)>>>>納得
せんせいのなつやすみ。27日目
ひさびさにプロメアを見て、感動の余韻がなり止みません。
いやほんっっとすごい。
あの作品はすごい……!!
昨日の日記で、「プロメア=音楽の力(物理)」という話をしました。
今日は「 音楽のもつ力 」について、少し解説をしようと思います。
音楽のもつ力
まず、言葉と音楽について比較します。
言葉とは、デジタル信号です。
誰もが使うことのできる、便利でチープな道具です。
どんな言葉(道具)があり、どうやって使えばいいか?
その方法は国語辞典などによって整理され、まとめられています。
理論上、大人でも子どもでも、言葉を使ってコミュニケーションすれば、だいたいのことを伝えることができます。
ちょっと強引にまとめると、
「言葉を使えば、どんなことでも伝えることができる」
逆に言えば、
「言葉が読めれば、どんなことでも理解できる」
ということです。
(もちろん、物ごとを100パーセント正確に伝えることは不可能に近いですが、そこはいったん割愛します)
ですが、ここに落とし穴があります。
何かを正確に伝えられる。
過不足なく理解することができる。
…ということは、それ以上先に進む必要がないということです。
だって、もう答えは出ているから。
1+1= 2 で終わってしまうように、一度理解したら、それ以上先に進むことはできない。
(その先に進めるのは、アインシュタインくらいです)
言葉を聞いて、読んで、理解して納得する。
納得は考えること、悩むことの終着点です。
感動とは違う。
もし、誰かを感動させたいなら、理解を超えたその先へと連れていく必要があります。
名ゼリフとは?
世の中には、名ゼリフとよばれるものがあります。
「安西先生…!! バスケがしたいです……」
(『スラムダンク』井上雄彦・集英社より)
とか。
忘れがちなのですが、名ゼリフとよばれるものたちは、ポンッといきなりそのセリフが出てきたわけではありません。
そのセリフを言った人物。
そのセリフを発するにいたったシチュエーション。
そのセリフに込められた想い。
名ゼリフの裏には、さまざまなものがあります。
つまり、名ゼリフを名ゼリフたらしめているのは、名ゼリフそのものではないのです。
魅力的なキャラクターがいて、苦しく追い込まれた状況にあって、どうしようもなくて、それでも胸の内にうずまく想いがあって。
その全てがそろった瞬間。
言葉という薄っぺらなナイフに世界を切り拓く力が宿るのです。
言葉とは、デジタル信号です。
単純明快で、誰もが自由に使うことのできる便利な道具です。
薄っぺらくて、チープで、代替可能な量産品です。
でも、だからこそ。
人物・状況・気持ちがぴたりとはまったときだからこそ、言葉は力をもつのです。
どんな切れ味のいいナイフより、空気を切りさく名刀となるのです。
最近の作品にありがちなこと
(”最近の作品”ってざっくりまとめちゃうのはよくないのですが…)
……なんでもかんでも言葉で説明しすぎじゃないですか?
主人公は○○という過去がある。
だから、××という親の敵を倒そうとしている。
ヒロインは主人公のことが好き。
なぜなら、主人公の優しいところが好きだから。
(´・∀・`)ヘーソウナンダ
……で、理解して納得して終わっちゃうんですよね。
感動まで行かない。
音楽の利点は、
”確たる答えをもたないこと”
です。
理解の壁を飛び越えて、脳とハートに直接揺さぶりをかけることができます。
(遊戯王におけるダイレクトアタックです)
ゆえに、ヘタしたら「なんか、いー感じの曲だった」という印象しか与えることができません。
プロメアは音楽単体の力(”感動与え力”とでも名付けましょうか)もすごいし、ストーリーやキャラクターの気持ちとのハマりっぷりもほんとすごいんですよね。
え? さっきから「すごい」しか言ってないって?
だってすごいんだもん。
この感動を言葉に変換するには、あと十万字は必要です…!
ガロを描いたらリオも描かなければ……!! という使命感に駆られました。