今日を摘む

ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

絵画がもつ光

 

先日、コートールド美術館展(愛知県立美術館)に行ってきた。
半年以上美術館には行っていなかったのだが、改めて生の絵画を見る、ということの大切さを感じた。


生の絵画、アナログで描かれた絵はどれだけ精巧に液晶画面に出力しても、実際の物とは似て非なるものでしかない。
なぜならアナログの絵は、その絵だけで完結する物ではないからだ。

 

 


私たちがアナログの絵を見る際、そこには三つの要素が存在する。


1 絵を照らす照明
2 自分が絵を見る角度
3 塗り重ねられた絵具の厚みが生み出す陰影

 


私たちが現実の世界で何かを見ているとき、そこには光が存在する。
そして、光には方向があり、光が遮られた部分は陰となる。
また、自分が絵を見上げたり横からのぞいたりと、見る側にも角度が存在する。


見る角度を変える度に、絵を照らす光の加減も変わる。
ほんの少しかがんで見上げるだけで、照明の光と絵具の反射具合が合致し、突然絵がキラキラと輝き出すことがあるのだ。
一歩下がってみるだけで網膜に入る光量が減り、急にしおらしい絵画になったりもする。

 

 


また、写真や液晶では伝わらないのが、絵具の厚みである。
特に今回の展示品のなかで、群を抜いて厚みを持つ絵画がある。
ゴッホの『花咲く桃の木々』だ。


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写真では全く伝わらないのが残念だが、この作品に描かれている雲の部分がすごい。
厚みのある絵の具をそのままのっけたような感じで、絵具の下側にできる影が、まるで雲そのものの影のように見えるのだ。


油絵の具の厚みを利用する画家は多くいるが、ここまで厚みを持たせる人物はそういない。
”情熱の画家”の異名は自身の耳を切り落としたことより、この絵具の執拗な厚みからきているのではないかと思う。

 


私が特に“光”を感じたのが、次の二作品だ。


エドゥアール・マネの『アルジャントゥイユのセーヌ河岸』


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画面中央のボートのベージュの部分。
これも実際に見ると照明が絵具の光沢に明るく反射して、本当に日光が当たっているような、木の板の暖かみが感じられる。

 


『睡蓮』でおなじみ、クロード・モネの『花瓶』


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花瓶の左下にある白い絵具のライン。
これも写真だと「ただの白い線」なのだが、実際に見ると確かに光に見える。
照明の反射が、白い線を太陽の光線に変えるのだ。

 

 


デジタルのイラストの良さが「どこでも見られる」ことならば、アナログ絵画の良さは「その時、その場所で、その角度でしか見ることができない」ということだろう。
それはつまり、描いた画家と同じ視点に立てることでもある。


画家は自分の絵を、光の下で様々な角度で凝視し、絵具を塗り重ねていった。
私たちも同じように、照明の照らす場所で作品をいろんな角度で見つめ、一つ一つのタッチに思いを馳せる。


液晶越しに発光する絵画は、あくまで「液晶越しのイラスト」にすぎない。
実物の絵画は、光と共にある。

 

※写真はコートールド美術館展様の公式サイト及びTwitterより拝借しました。

 

コートールド美術館展 魅惑の印象派@愛知県美術館 https://twitter.com/courtauld2019?s=09

http://courtauld.jp