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ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

文劇6『戯作者の奏鳴曲』感想 ー彼らにとって、仲間とは、なにか?ー

まず、さっくり感想。

 

…白秋先生…、めちゃくちゃかっこいい!!

わたくし、文劇3の白秋先生にハートをブチ抜かれた人間なもので…。


軽やかな中に、確かに感じる銃の重みがもう、すばらしくてすばらしくて…!!

最初の登場シーンでもう胸がいっぱいになっちゃって、口元を手でおおってしまいましたね。
(感極まったオタクムーブ)

 

さて、ここからネタバレありのがっつり感想になります。
まだ未視聴の方、ネタバレNGの方はブラウザバックをお願いします。

 

舞台 文豪とアルケミスト
戯作者の奏鳴曲 

ー彼らにとって、仲間とは、なにか?ー

今回、登場人物たちには特徴がある。

太宰治のいない、無頼派
小林多喜二のいない、プロレタリア文学

 

つまり、ある派閥におけるリーダー的な存在がいないのだ。

 

無頼派の筆頭であり、生き方そのものも無茶苦茶を貫いた太宰。
文学に訴えるだけでなく、特高警察に虐殺され、ある意味プロレタリアのキリストとなった多喜二。

 

グループの象徴ともいえる彼らがいないこの世界では、いまいちまとまりに欠けてしまう。

 

また、グループの末端には末端になりの苦しみがある。

一応、無頼派のくくりに入る作家、檀一雄
しかし、なかには

檀一雄無頼派ではない」

とする一派もある。
Wikipediaより)

 

ー彼らにとって、仲間とは、なにか?ー

そこに、文劇3のかつての館長、”国家のようなもの”がやってくる。
館長の目的はこうだ。

「忌々しい無頼派どもを、分断して殲滅する」

今回の館長は、文劇3のときのような、圧倒的暴力は使わない。
館長はオダサクの心の隙に付け込み、疑念を植え付け内部分裂に持ち込んだ。

 

…おそらく、このやり方は正しい。
最小の手数で最大の効果をあげることができる、という意味で。
正鵠を得ている。

 

どんなに強大な組織も、疑心暗鬼から瓦解は始まる。

 

(むかーしむかし、SP●●Dというとある音楽グループがおったのじゃがな、
バラエティ番組でやった「本音スイッチ」というゲームがグループ解散のきっかけになった、と言われているんじゃ。

”この中に、辞めてほしいメンバーがいる”

という質問にスイッチを押して答えるんじゃが…これが原因でSP●●Dは解散したといわれておるんじゃ…。
「にほん ちょっとだけむかしばなし」 より)

 

ー彼らにとって、仲間とは、なにか?ー

疑念を植え付けられ、内部分裂に持ち込まれ、リーダーのいない無頼派は簡単に分裂する。
そして、分裂して個々に散らばった彼らは、いとも簡単に討たれてしまう。

 

組織や仲間が、さらに強大な組織に潰されるとき。
かつてのような絶対的暴力(つまり、特高)が使えない場合、仲間割れをさせるのがベストだ。

 

(ちなみに、ガラム理論という

「多数決をひっくり返す理論」では、
素人たちが持つ浮動票は、そこに17パーセントの確たる意見をもつ専門家がいれば、そちらに引っ張り込むことができる、とされている。

 

つまり、全体の17パーセントにあたる人々がさも自信満々に「賛成!」と主張すれば、
とくに知識も考えもない一般人たちは、

「なんか、賛成のほうがよさそうだから…」

と、風になびく葦のごとく、賛成のほうに流されてしまうのである。

 

つまり、自信満々に語ることのできる話者をプロパガンダとして送り込み、
国民の17パーセントが賛成派に回るよう工作すれば、
政府は国民をコントロールすることができる! ってことだね☆)

ー仲間とは、なにか?ー

結論を言うと、彼らは仲間である前に、圧倒的な個であった。


そして、彼らは文学でつながっていた。


無頼派だとか、プロレタリアだとかの前に、文学でつながっていた。

 

オダサクの文学は、大阪の下町の名もなき人々を描いた。
名もなき人々を愛し、彼らの言葉を文学としてつむいだ。

 

彼らの言葉を大切にするオダサクだからこそ、安吾が紡いだ言葉がわかる。
堕落論』の中に込められた、安吾の叫びや願いがわかる。共鳴する。
そして、奮い立つ。

ー彼らにとって、仲間とは、なにか?ー

それはきっと、"無頼派"というグループだけではない。


言葉を大切にする人や、
文学に触れようとする人々、
書き手の願いを理解しようとする人々、
それらすべてが、仲間なのだ。


今回の敵も、"国家のようなもの"であった。


しかし、文劇3とちがうのは、今回の”国家のようなもの”は、

目に見える暴力を使わない、

ということだ。
今の世界も、表向きでは「暴力はすでに駆逐されたもの」という扱いをしている。
しかし、それは形を変えただけなのかもしれない。

 

そして、忘れてはならないのは、文学が支配する側に加担することもある、ということだ。

(かつて、北原白秋が軍歌の制作を請け負っていたように)

ーあなたにとって、仲間とは、なにか?ー

今回の文劇は、私にとって


「ことばに関わる一人として、責任を持て」


と言われているような内容でした。
いやあ、重たいけどおもしろい! そうこなくっちゃ! みたいな。

 

あと、演出のキレが……! やばかったですね!!


いつもすごいんですけど、

赤いマントが飛び込むとこなんて、マジで心臓がぎゅってなりました。

あと、晩餐!

『君は『最後の晩餐』を知っているか』(布施英利・光村図書)
を、教えていたので、晩餐のシーンは

「ほあああああああ!!!!!!」

と大興奮でした。
いやあ、服の白さが目立って…ユダって感じで…そこもまた最高でした!

はあ…、白秋先生かっこいい…!

(そればっかですいません。みんなかっこよかったんですけど、ちょっと、私にとって白秋先生が特別過ぎて…!!)

 

では、読んでいただいてありがとうございました。
文劇のスタッフさん、キャストさん、最高な舞台をありがとうございます!
次回もぜったい行きます!


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※ガラム理論はこちらの書籍を参考にしています。