今日を摘む

ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

三島由紀夫と読書がもたらす幸福

世の中には速読なるものがあるが、文章が早く読めるということには確かに一定の価値があるのだろう。
200ページ程度のビジネス書や新書ならば、私は一時間ほどで読み終えることができる。
もちろん速読術などは使っていない。

 


情報を得るための読書ならば、短時間で知識を吸収した方が効率はよいだろう。
だが、小説となると話は少し違う。


あらすじを理解すること、人物の気持ちを理解すること。
これらは訓練すればある程度の速度でもって理解することは可能だ。


でも、そんなふうに時間とか効率とかを考えて読むのはもったいない。
そう思わせてくれたのが、『春の雪』(三島由紀夫新潮文庫)だ。


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以前、『みみずくは夜に飛び立つ』という村上春樹氏と川上未映子氏の対談集で、村上春樹氏が「小説とは文体であり、文体とは比喩である」ということを語っていた。
この言葉に感銘を受けてから、小説を読む際は比喩に注意するようになった。
そして分かったことがある。


心の中にすっと浸透するような比喩は多くある。読者の理解を助け、黒子のように背景に溶け込むような比喩は。
だが、心に刺さる比喩はあまりない。
がつんとした衝撃でなくても、知らないうちについた切り傷からうっすらと血がにじんでいたような、過去を思い返してみて「あれ、あの時かな?」と思い当たるような、心に痕をつけるほどの比喩はなかなかないのだ。

 


話は変わるが、私の相方は本を読まない。
だから、私がしゃべらないで本を見つめているとすぐに「読み耽(ふけ)っている」という言葉を使う。


私は言い様のない違和感を覚える。
寝っ転がったまま読み終えた本を惰性で開いているときも、紅茶の実用書を開いて知識のおさらいをしているときも、残り50ページほどの新書を読み終えてしまおうと集中しているときも、彼にはすべてが同じに見えるのだろう。
別に、寝食を忘れて没頭しているわけではないのに。

 


職業柄、言葉の使い方に敏感すぎるきらいがあるので、いちいち目くじら立てて訂正する気はない。
それに、世の中は言葉の使い方に対して、さほど窮屈ではないらしい。
では、世の中にある小説は何のためにあるのか?

 


私たちは小説を読むとき、何を楽しみに読んでいるのだろうか。
ストーリーの面白さ? 絶体絶命のピンチをまさかの方法で乗り切り、「そうきたか!」と意表を突かれること?
あるいはミステリーのように、自分も主人公と共に謎を解いていって、ばらばらだったピースがかちりとはまった瞬間の気持ちよさを味わうため?
それとも、登場人物の苦悩や痛みに触れることで、自分の心も癒やされていくのを知っているから?


でも、これらはすべて小説以外でも体験できることだ。
ゲーム、映画、ドラマ、漫画、舞台…。
キャラクターもストーリーも奇想天外な演出もすべて他の媒体でもできることだ。

 


小説にしかできないこと。
それは村上春樹氏も言うように、「文体=比喩」なのだろう。


比喩とは組み合わせであり、化学反応であり、マリアージュである。
時には「どうしてそれを持ってきた!?」という組み合わせもあるが、それらが奏でる不協和音もまた、比喩の効果を倍増させたりする。

 


せっかくなので、私に“痕”をつけた比喩を紹介する。


ー・ー・ー


 雨雲は天を覆ってはいる。だが、その地平からわずかに上のところを大きなバターナイフでくるりと廻して雲の裾を切り捨てたような具合なのだ。これほど綺麗に上と下とに分かれた空を見たことがなかった。
 天球の過半は、鉢かつぎ姫の見た空はかくもあるかと思われる、夢さえも封じる絶望と圧迫の漆黒である。しかし、はっきりと水平に引かれた雲の境界の下は、逆に奇妙なほど明るい。濡れた屋根の家々はまぶしく輝き、見はるかす神社の葉桜は若い命の緑をきらきらと光らせている。


 『空飛ぶ馬』より「織部の霊」(北村薫創元推理文庫


ー・ー・ー


雨上がり、どんよりと濁る雲間から差す光。そのくっきりとした境目をバターナイフ(と、それによって切り取られたバター)という誰もがやったことのある光景に落とし込む。
まるで神様がさっと何でもないような手つきで切り取ってしまいましたと言わんばかりの、巨大で優雅な力。
 大きすぎるものの前に立ったときに感じる己の無力感、畏怖の中からこみ上げてくる震えるような感動。
自然という巨大な神様をこれほど美しく表した比喩を、私は知らない。

 


人物の感情を疑似体験すること、文体そのものを味わうこと。
それらと効率は相関しない。


読書の楽しみは「夜を徹してでも続きが読みたい」というものだけではない。
「この本をずっと読み続けていたい」という気持ちになることもある。
そんな本に出会えただけでも、幸福だと私は思う。

 


言葉の組み合わせが奏でる和音は、時に心地よく時に鋭利に心をひっかく。
その傷口から流れる虹色の恍惚。
三島由紀夫という作家は、そんな読書の幸福を教えてくれるのだ。