なぜ『プロメア』はこんなにも人を元気にするのか?
見るドラッグと言われるほど、観客を「何度でも見たい! キメたい!!」と熱狂させる映画プロメア。
かくいう私も、初めて見たのは7月3日(水)なのに、たった二週間で5回も視聴しているという。
(うち、応炎上映二回!)
なんとかこの作品の良さを伝えたいと思うのだけれど、プロメアを見た直後は「すごい! やばい!! カッコいい!!!!」という小学生並の語彙しか出てこないので、ちょっと冷静になって分析してみることにしました。
ここからはネタばれありなので、「新鮮な気持ちでプロメアを見たい」という方はブラウザバックを。
「多少OK!」という方はスクロールをどうぞ。
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Q.なぜ、プロメアは人々をこんなにも元気にするのか?
A.「生きる」ということを全力で肯定してくれるから。
プロメアのストーリーは至ってシンプルだ。
「敵の野望を打ち砕き、世界を救う(巨大ロボットで)」
そして、その戦いの中で主人公たち(ガロとリオ)は幾度打ちのめされぼこぼこにされても、何度だって立ち上がる。
四回でも五回でも、正直何回吹っ飛ばされたのか数え切れないぐらいぶっ飛ばされるのだけれど、それでも彼らは立ち上がる。
(言葉にするとくどいけど、迫力のある映像と、澤野さんの熱い音楽の相乗効果で脳内を常にかき回してくれるので、ぜんぜんくどさを感じない。)
…彼らが立ち上がるたびに、心の底から「がんばれー!!」と叫びたくなる。
そしてもう一つ。
この作品における戦いが「生きようとするもの同士の戦い」であるということ。
クレイの野望を打ち倒し、地球ごと人類を救おうとするガロとリオも、試行錯誤の末に一万人の市民を選び出し、その他を切り捨てるという決断をしたクレイも、どちらも人類が生き延びるための行動なのだ。
(…作中ではガロもリオも「一万人!? たったそれだけ?」という反応をしてますが、私は妥当だと思う。
いくらワープ機能が使えると言っても、オメガケンタウリに着くまでにどれくらいの年月がかかるか分からないし、一万人分の居住スペースや食料などの必要物資を考えると、あまり希望的観測はできない。
もし食糧の不足が起きれば、逃げ場の無い宇宙船の中で暴動が起きるのは必至だ。)
クレイの装備の端々に見られる、一万人を救うための武装。
こんなにも泥臭く、生きることに執着した武装があっただろうか。
「すべての人間は自由で、生きて、幸せになるために存在する。
誰のどんな命も、けっして見捨てたり、粗末に扱っていいはずがない!」
世間一般にありふれているこれらのメッセージは手垢にまみれすぎていて、人々の心にはなかなか届かない。
だけど、プロメアの音楽が、映像が、何度でも立ち上がるガロとリオの姿が、網膜を通してダイレクトに私たちの心に揺さぶりをかけてくる。
「人は何度だって立ち上がれる。生きて、立ち向かえる!!」
言葉にすると陳腐なものになってしまうとても大切なメッセージを、プロメアは真正面からぶつけてくる。
その熱さに人々は熱狂し、何度でも劇場へ足を運ぶのだ。
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※ここからはさらに細かいネタばれがあります。
Q.「バーニッシュ」とは何か?
個人的に気になったのが、ガロの描かれ方(ちょっと鈍感なところ)だ。
アイナとのシーンは「ご愛嬌」という意味もあるけれど、バーニッシュの人たちに対しては少し冷たすぎるのでは? と思った。
まず、連行されるピザ屋のにーちゃんをかばおうとして、ピザ屋の親父さんが逮捕されそうになったとき。
ガロは「親父さん”は ”関係ないだろ!」という。
アイナは「この人”たち ”はテロリストじゃないでしょう!」という。
(もしかしたらガロの中で、「正当防衛だろうが何だろうが、炎を使って他の人に危害を加えた時点で敵!」という認識が働いたのかもしれない…)
次に、「バーニッシュもメシを食うのか?」のシーン。
完全に人外扱いである。
(炎を消して人々を守る存在であるガロにとって、街を燃やして人々に危害を加えるバーニッシュは、理解できない存在なのかもしれない)
しかし、ここで一つのきかっけが起きる。
シーナの死だ。
ガロも両親を亡くしている。
仲間の死という共通体験を通して、ガロは初めて「仲間が死ねば悲しむ、バーニッシュも自分たちと同じ存在」だと理解する。
…人命救助を何より優先する正義に篤いガロも、ここまでしないとバーニッシュという異種の存在を理解できない。
作中で明らかになるバーニッシュとは、「プロメアに共鳴しやすい人間」のことである。
冒頭のシーン(TOKYO,SAN FRANCISCO,PALISのところ)から推測するに、「共鳴しやすい人間」とは、感受性が高く、繊細で傷つきやすいということなのではないだろうか。
(リオの表情がとても豊かだったり、プロメアを開放する前のクレイが笑顔を全く崩さないのも、そのせいかなあと思ったり…)
繊細でもろく、傷つきやすい。でも、だからこそプロメアたちの想いをキャッチできる。
バーニッシュとは、そんな存在なのではないだろうか。
現代に生きる私たちは、そんな繊細で傷つきやすい人たちのことばに、ちゃんと耳を傾けているだろうか。
根拠が無いとか女々しいとか言って一蹴して、まるで無いもののように扱っていないだろうか。
本作品におけるプロメアの声は、リオが掬いあげてくれた。
だが、リオだけではプロメアたちの「もっと燃えたい」という叫びの奥底にある「完全燃焼したい」という願いに気づくまでには至らなかった。
今、私たちはちゃんと聞けているだろうか?
ささやかな自然の声を。
周りの人たちの言葉にされていない想いを。
自分の内側に閉じ込めて蓋をした、「本当はああしたかった!」という叫びを。
自分の気持ちだってはっきり「こうだ!」とは中々言えないのに、ましてや他人を理解することなど不可能といってもいいくらいだ。
Q.「バーニッシュ」とは何か?
A.その異質さ故に理解されず、周囲から拒絶された人々。
いつだって誰かを思いやったり理解しようと努力することは難しく、拒絶して切り捨ててしまうことの方が100倍楽ちんだ。
だが、本当は自分自身のことだってあやふやで、何一つ分かってなどいないのに分かったフリをしてやり過ごしている。
『プロメア』という作品の「生きろ」という熱いメッセージの奥底にあるもの。
それは私たちに「どう生きるべきか」ということも伝えているのではないだろうか。
Inferno、めっちゃ好き。