今日を摘む

ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

感想 文劇『綴リ人ノ輪唱』を見て

個人的な見所ポイント!

(長くなりそうなので、先に言っとくスタイル)

さいせーくんのアクロバット&指先まで魂のこもった繊細な演技!
ほんと、手のひらの演技が凄いので注目してほしい!


銃が四人もいるのに、全員特徴があって戦闘が超カッコいい!
ちゅーやのスタイリュシュ酔いどれアクション&はくしう先生のボスっぽさ!
さくたろうとさいせーの二人揃ったときのほのぼの感!


まだいっぱいあるけどとりあえず以上!

 


さて、Twitterのタイムラインでは様々な叫びが上がっている文豪とアルケミストの舞台、『綴リ人ノ輪唱』。
本当にタイムリーな内容で、私自身も色々考えさせられました。
個人的に思ったことを、二つのテーマに絞って書きたいと思います。

 


※なお、ネタバレに関する部分もあるかと思いますので、まだ未視聴の方はご視聴になってから見られることをおすすめします。

 

 


本日のテーマ


1 個人と国家
2 人に望まれるものだけが、後世に残っていくべきなのか?

 


1 個人と国家


個人を統制するのは国家であり、個人が国家に匹敵する権力を持ってはならない。
国家の統制の前では、声の大きな個は邪魔でしかないからだ。
一方、人気のある個を国家が利用すれば、統一を効率的に行える。

 


多くの人はこう思うだろう。


「それ、戦時下での話でしょう?」
「平和な現代では、当てはまらないでしょう?」
「大変なのはコロナ禍の今だけでしょう?」と。

 


だが、影は常に私たちの側にある。

2020年4月13日に投稿され、物議を醸した動画について、覚えているだろうか。
元首相によるstay homeの動画である。


私はこれにゾッとした。
紛れもなくこれはプロパガンダ(政治的意図をもつ宣伝活動・情報による大衆操作)だからだ。

 


国家を人間に例えると、私たち個人は無数の細胞であり、その周りを経済という血液が流れている。
時には外敵から身を守るため、分厚いコートを身にまとったり、家を建てたりする。


個々の細胞の立場にあるアーティストが「家にいよう」と呼びかけるのと、血液を動かす国家の立場に当たる人間が「家にいよう」と呼びかけるのでは、意味合いが違ってくる。


彼らの仕事は、滞りかけた血液を動かすために運動することであり、何か栄養のつくものを食べることであり、一緒になって休むことではないのだ。
壊死しかけた細胞に対して、体内の自浄作用に任せるだけで何もしないのは、責任の放棄に他ならない。


幸い、例の動画は政府側の思惑とは別の方向で受け取られ、炎上した。
このように、プロパガンダは何も「戦争!」などの過激なものだけではないのだ。


(余談だが、政界の誰かが鬼を滅する某漫画に対して語り出したらマジでヤバい……と思っている。
なぜなら、人気作品の威を借りた、人気取りの手法だからだ。
私たち一人一人も、共通認識による好感や、ハロー効果などについて自覚的であるべきだと思う)


現代社会においても、一見それとわからないような形でプロパガンダは私たちの懐に忍び寄ってくる。
私たちの心に警鐘を鳴らす意味でも、この作品はタイムリーだったのだ。

 

 


2 人に望まれるものだけが、後世に残っていくべきなのか?


私はこの演劇を見て、この部分が一番胸に刺さった。
なぜなら、「人に望まれるもの」というのは、言い換えれば「人の役に立つもの」であるからだ。
現代の社会も、間違いなくその方向に向かっている。
役に立つもの、売れるもの、なくてはならない必需品。
それ以外は排除され、淘汰されていく。
多様性を持てない社会というのは、とても貧しい社会だと思う。


私は、本当の貧しさとはお金が無いことではなく、多様なものに触れられず、感性を死滅させていくことだと思う。


2020年現在が戦時下並の非常時だという現状はある。だが、元々その気配はあった。
効率化を求め、選択と集中により収益性の低いものを切り捨てていくこと。
それ自体は悪いことではない。
しかし、多様性を育む余裕がない社会は問題だと思う。


これを経済の悪化によるものと断定してしまうのは容易い。
今は仕方がないと諦めることは簡単だ。
重要なのは、心の貧しさが何をもたらすのか、私たちが理解することだ。

 


<心の貧しさは何をもたらすのか?>


必要なもの、生産性が高いもの売れるもの、そういったものしか生き残れない世界に何が起きるのか。
私はその行き付く先は全体主義だと思う。
そしてその先は破滅だ。


心の貧しさが全体主義へと繋がる理由は、人の命という一番強いものを盾にとられるからだ。
これを人質に取られてしまうと、私達に成すすべはない。


その次に人質となるのは、生きるための最低限の生活だ。
人はパンのみに生きるにあらず。
しかし、多様性のない社会でどうやって心を満たせるだろうか。
満たされない飢えた心のままで、他者への共感ができるだろうか?
自分とは異なる世界のものを、受け入れることができるだろうか?

 

 


全体主義の先が破滅である理由は、マジョリティー(多数派)の人々も、結局はマイノリティー(少数派)の集まりであるからだ。


ある作品について、大好きなのか、まぁまぁ好きなのか、可・不可で言えば可なのか、実はよくわかっていないけれど、とりあえず好きの側にいるのか。
人の好みのレベルはグラデーションになっているはずなのに、全体主義はそれを好き・嫌いと白黒ではっきり分け、塗りつぶしてしまう。
そうなってしまえば、まぁまぁの人も、可レベルの人も、全て大好きな人たちとしてにまとめられてしまう。
自分の認知の些細な違いを無視され、一緒くたにまとめられてしまう。
無理に押し潰された気持ちの不和はどこへ行くのか?


大多数の人間に認められたものしか存在しない世界では、彼らマイノリティーの心を救うものはない。
行き場のない気持ちがどこへ行くのか。
押さえつけられた気持ちがいつか破裂し、膿を吐き出す未来は想像にかたくない。

 

 


文学とは、個人が作り出したごく個人的なものである。
そもそも、人が生きることもごく個人的なことである。
役立つ人は生きるべきとか、役立たない人は排除すべきとか、そういう次元ではないのだ。
人は誰かの役に立つために生きているのではない。

 


確かに、自分のやりたいことや自分の行いによって誰かが喜んでくれたり、人の役に立ったりするのはとても嬉しいことだろう。
だが、それはあくまでプラスアルファのことである。
生きることは、命があるということは、ただそれだけでいいということなのだ。


「みんなの役に立つからいい命」というものではない。


作品を見て、聞いて、感じて、面白いと思うこと、つまらないと思うことが、ごく個人的なことであるように、生きることもまた、ごく個人的な営みだ。
そのごく個人的な営みにメスを入れ、矯正しようとする者が何を狙っているのか。
何を企んでいるのか。


人間の個性を潰し、画一化した機械のような民衆を作り出していくことで、どんなメリットがあるのか。
モノ言わぬ民衆、政府の言うことに右にならえで歯向かわない民衆。
それらを作り上げることで、得をするのは誰なのか。私達はいつも目を光らせていなければならない。

 


この演劇のラストが示すものは、「弾圧されても、抑圧されても、それでも文学は立ち上がる」というメッセージだと私は思う。


確かに、立ち上がるだろう。
しかし、それは十年後だろうか、二十年後だろうか。
あるいは五十年後、百年後かもしれない。
かつて古代ギリシャの文明が四百年間も失われ、暗黒の中で断絶してしまったように。

 


今、何が滅びようとしているのか。
誰が滅ぼそうとしているのか。
私たちの心が、貧しさのために何を排除しようとしているのか。


私たちは常に、感性を研ぎ澄ませていなければならない。
それが、今生きている者の使命だと、私は思う。

 


最後に、この大変な時期にこんなにも素晴らしい演劇を作ってくださったスタッフ、キャストの皆様に、最大限の賛辞を送ります。


参考文献

・舞台『文豪とアルケミスト  綴リ人ノ輪唱』
・映画『この道』
・『古代ギリシアの歴史ポリスの興隆と衰退』
  (伊藤貞夫・講談社学術文庫)