今日を摘む

ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

小、中学生こそ万年筆を使うべきではないか

ドイツでは小学校2年生から万年筆を使うらしい。
地域によっては、万年筆使用許可証というライセンスまで発行しているそうだ。
日本もそうするべきではないかと思う。


なぜなら万年筆は、


1 筆圧がいらない
手が疲れないので、たくさん書ける
”書くこと”がストレスになるのを防ぐ


2 持ち方アシストが付いている
指を持ち方ガイドに合わせるだけでさらさら描ける
鉛筆は正しい持ち方プラス筆圧がいる


3 ”消す”という動作から解放される


など、勉強における”書く”という行為をスムーズにしてくれるからだ。

 

現状


現在の中学生を見ていると、クラスの三分の一から三分の二の生徒は、鉛筆・シャーペンの持ち方が間違っている。
通常、筆記具は親指と人差し指と中指の三本のトライアングルで支える。
それに対して、薬指も加えた四本指で鉛筆を支えていたり、親指の第一関節でベルトのように鉛筆を押さえつけたり、人差し指が”く”の字にそってしまうぐらい力が入っていたりする。
 
正しい持ち方は重要だ。
なぜなら、書くという行為が楽であることが必要だからだ。
中学生は漢字・英単語・数学の計算など、まだまだ書いて覚えることの比重が高い。
手指や手首に負担のかかる持ち方をしていると、


変な持ち方で書く→手が痛い→勉強すると手が痛くなる→イヤだ→勉強はイヤだ


という思考のマイナスルートにつながってしまうのだ。

 


万年筆を使うことで得られるメリット


1 消しゴムからの解放
2 筆圧からの解放
3 美と実用の使い分けに繋がる


1 消しゴムからの解放


『東大生のノートは必ず美しい』とは言うが、彼らのノートが美しく見えるのは、決して「黒板を美しく写した」からではない。
簡潔にまとめられ、余剰がないから美しく見えるのです。
彼らは要点さえあればそこから脳内に収納されている様々な知識を引っ張り出せるので、最低限の矢印やメモなどで事足りるのです。


普通の人は簡潔に書かれた単語だけでは、それらが意図する内容までは思い出せません。
そのため、要点と要点をつなぐ矢印を書き込んだり、プラスのメモを付け加えたりと、補助情報を追加することで知識と記憶を結びつけていくのです。


東大生にとって、美しいノートは勉強の手段ではなく、努力した結果の副産物なのです。
「美しいノート」という結果だけ見るのは、何も考えずに答えを丸写しするのと変わりません。

 


美しいノート信仰から自由になろう


生徒達はなぜ、ノートをキレイに取ろうとするのだろうか。
私は、これはノート点検という悪しき習慣が生み出した負の遺産だと考えています。

 


ノートがキレイ=勉強している、ではありません。
また、一部の生徒はノートを書かなくても聞くだけで理解できる生徒もいます。
聴覚優位の子は特にその傾向が強いです。


私は、ノートを評価対象にするなら、プリントと同じく評価目的を明示すべきだと考えています。
ノートにミニ作文や自分の意見を書かせたり、「漢字を覚えるために工夫をしよう」というテーマを決めたりと、あくまで「自分なりのアウトプットが出来ているか」を評価対象にすべきです。

 


ノート指導の理想は、黒板の板書を元に生徒が自分の考えを書き加えたり、分かりやすいようにイラストや図解を添えたりなど、自分のためのプラスαが書けるようになることです。
ノートは勉強のアウトプットの場なのです。
間違えても、消しゴムでキレイに消す必要なんてない。
二十線でシャッシャッで構わない。

 

 


雑誌『趣味の文具箱』で連載されているコラム、「文具のかけ橋」(ブルース・アイモン氏)で、


フリクションの技術は素晴らしい。
でも、アメリカ人は使わない、
自分の字を消すという習慣がないからだ。
タイプライター文化が根付いてるので、文書作成は打ち込みで行う。
アメリカ人が手で書くのは、日常のメモとサインだけだ」
(『趣味の文具箱』49号より要約引用)


と、書かれていました。
アメリカ人にとって、手書きはパーソナル(個人的)なものなのです。


私は、勉強用のノートもパーソナルなものであるべきだと考えています。
気付いたことや深めたいこと、自分がおもしろいと思ったところ。
ノート点検が害悪なのは、勉強というパーソナルで自由なものに教師の視点というフィルターをかけてしまうからです。

 


2 筆圧からの解放


私は書道や硬筆について専門的に習ったわけではありません。
そのため、書写を専門にする方から見れば、この意見は間違っているかもしれません。

 


思うのですが、シャーペンや鉛筆って、正しい持ち方プラス筆圧がないと書きにくくないですか?
先述した筆記具の正しい持ち方(三本指でトライアングルに支える)だけだと、紙と芯がこすれる振動で指がズレてしまったり、そのズレを防ごうとして人差し指に余計な力が入ったりしませんか?


持ち方サポート(三角形の鉛筆やシャーペンなど)が付いている筆記具を持つとよく分かるのですが、なかなか三本の指だけでは摩擦によって芯を紙に擦り付けて筆記する鉛筆やシャーペンを支えるのは難しいと思います。
私自身もシャーペンを長時間使うと人差し指が痛くなってしまいます(気付いたら”く”の字で押し付けてしまっている)。


その点、万年筆は紙との摩擦を必要としないので、三本指のトライアングルだけで軽やかに書くことができます。

 


3 美と実用の使い分けに繋がる


InstagramTwitterでは、万年筆で書かれた美文字作品がよく上がっています。


万年筆界隈を盛り上げてくださる美文字ユーザーの方々には、心からの御礼を申し上げたいです。
しかし、万年筆の魅力は美しい書写作品を作りあげることだけではないのです。


万年筆が持つ筆致のなめらかさ・書くことへのストレスの無さは、私たちの思考をよりスムーズにします。
私は、万年筆は人間の思考スピードについてこられる唯一の相棒なのでは? とさえ思います。


(鉛筆・シャーペンは手への負荷が大きく、キーボード入力は行の入れ替えやアイディアの追加などを行う際、カーソル移動の手間がかかります)

 


先述したアメリカにおけるタイプライター文化(いわゆるパソコン清書)が一般化した現代こそ、思考スピードを落とさずにアイディアをシャッフルできる万年筆が最高の相棒だと思うのです!


(そもそも、「書類はPC出力」が当たり前の時代に「ノートを丁寧に書くこと」を強要するのはいかがなものかと思います)


下書きと清書は別物であり、下書きは自由に書いていいということを、もっと伝えていくべきだと思います。


美文字や書道などの芸術としての文字があるのと同様に、文字には思いつくままに自由にメモするという実務的な側面もあるのです。


丁寧に手入れされたセダンの美しさもあれば、四輪駆動のジープで思考の隘路(あいろ)を泥だらけになりながら疾走する、そんな良さもあるのです。

 


まとめ


現実問題として、学校にあまり高価な万年筆を持ってくるのはちょっと厳しいものがあります。
カクノ、ペリカーノJr、ラミー、プロシオンなど、せいぜい一万円いかないくらいの物が妥当かなと思います。
落としたり無くしたりしてもあまりダメージがない物が無難です。

 


消しゴムとシャーペンを使うのは、美術や数学の書き間違い、技術の製図などで十分です。
数学だって途中式を消してはダメですし、問題を最初から解き直したいのなら、大きくバッテンをつければいいだけです。

 


というわけで、「小・中学生こそ万年筆を使うべきなのではないか」という意見でした。


根本にあるのは、「勉強というパーソナルなものに学校が介入しすぎるのをやめよう」という考えです。


間違えても消さなくていいし、最初からキレイに書こうとなんてしなくていい。
万年筆という手のひらサイズの相棒は、君たちをより自由にしてくれるのです。
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(この文章は、万年筆でラフ→スマホに音声入力→スマホのメモ帳で微調整、という方法で書いています)