今日を摘む

ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

感想 文劇『綴リ人ノ輪唱』を見て

個人的な見所ポイント!

(長くなりそうなので、先に言っとくスタイル)

さいせーくんのアクロバット&指先まで魂のこもった繊細な演技!
ほんと、手のひらの演技が凄いので注目してほしい!


銃が四人もいるのに、全員特徴があって戦闘が超カッコいい!
ちゅーやのスタイリュシュ酔いどれアクション&はくしう先生のボスっぽさ!
さくたろうとさいせーの二人揃ったときのほのぼの感!


まだいっぱいあるけどとりあえず以上!

 


さて、Twitterのタイムラインでは様々な叫びが上がっている文豪とアルケミストの舞台、『綴リ人ノ輪唱』。
本当にタイムリーな内容で、私自身も色々考えさせられました。
個人的に思ったことを、二つのテーマに絞って書きたいと思います。

 


※なお、ネタバレに関する部分もあるかと思いますので、まだ未視聴の方はご視聴になってから見られることをおすすめします。

 

 


本日のテーマ


1 個人と国家
2 人に望まれるものだけが、後世に残っていくべきなのか?

 


1 個人と国家


個人を統制するのは国家であり、個人が国家に匹敵する権力を持ってはならない。
国家の統制の前では、声の大きな個は邪魔でしかないからだ。
一方、人気のある個を国家が利用すれば、統一を効率的に行える。

 


多くの人はこう思うだろう。


「それ、戦時下での話でしょう?」
「平和な現代では、当てはまらないでしょう?」
「大変なのはコロナ禍の今だけでしょう?」と。

 


だが、影は常に私たちの側にある。

2020年4月13日に投稿され、物議を醸した動画について、覚えているだろうか。
元首相によるstay homeの動画である。


私はこれにゾッとした。
紛れもなくこれはプロパガンダ(政治的意図をもつ宣伝活動・情報による大衆操作)だからだ。

 


国家を人間に例えると、私たち個人は無数の細胞であり、その周りを経済という血液が流れている。
時には外敵から身を守るため、分厚いコートを身にまとったり、家を建てたりする。


個々の細胞の立場にあるアーティストが「家にいよう」と呼びかけるのと、血液を動かす国家の立場に当たる人間が「家にいよう」と呼びかけるのでは、意味合いが違ってくる。


彼らの仕事は、滞りかけた血液を動かすために運動することであり、何か栄養のつくものを食べることであり、一緒になって休むことではないのだ。
壊死しかけた細胞に対して、体内の自浄作用に任せるだけで何もしないのは、責任の放棄に他ならない。


幸い、例の動画は政府側の思惑とは別の方向で受け取られ、炎上した。
このように、プロパガンダは何も「戦争!」などの過激なものだけではないのだ。


(余談だが、政界の誰かが鬼を滅する某漫画に対して語り出したらマジでヤバい……と思っている。
なぜなら、人気作品の威を借りた、人気取りの手法だからだ。
私たち一人一人も、共通認識による好感や、ハロー効果などについて自覚的であるべきだと思う)


現代社会においても、一見それとわからないような形でプロパガンダは私たちの懐に忍び寄ってくる。
私たちの心に警鐘を鳴らす意味でも、この作品はタイムリーだったのだ。

 

 


2 人に望まれるものだけが、後世に残っていくべきなのか?


私はこの演劇を見て、この部分が一番胸に刺さった。
なぜなら、「人に望まれるもの」というのは、言い換えれば「人の役に立つもの」であるからだ。
現代の社会も、間違いなくその方向に向かっている。
役に立つもの、売れるもの、なくてはならない必需品。
それ以外は排除され、淘汰されていく。
多様性を持てない社会というのは、とても貧しい社会だと思う。


私は、本当の貧しさとはお金が無いことではなく、多様なものに触れられず、感性を死滅させていくことだと思う。


2020年現在が戦時下並の非常時だという現状はある。だが、元々その気配はあった。
効率化を求め、選択と集中により収益性の低いものを切り捨てていくこと。
それ自体は悪いことではない。
しかし、多様性を育む余裕がない社会は問題だと思う。


これを経済の悪化によるものと断定してしまうのは容易い。
今は仕方がないと諦めることは簡単だ。
重要なのは、心の貧しさが何をもたらすのか、私たちが理解することだ。

 


<心の貧しさは何をもたらすのか?>


必要なもの、生産性が高いもの売れるもの、そういったものしか生き残れない世界に何が起きるのか。
私はその行き付く先は全体主義だと思う。
そしてその先は破滅だ。


心の貧しさが全体主義へと繋がる理由は、人の命という一番強いものを盾にとられるからだ。
これを人質に取られてしまうと、私達に成すすべはない。


その次に人質となるのは、生きるための最低限の生活だ。
人はパンのみに生きるにあらず。
しかし、多様性のない社会でどうやって心を満たせるだろうか。
満たされない飢えた心のままで、他者への共感ができるだろうか?
自分とは異なる世界のものを、受け入れることができるだろうか?

 

 


全体主義の先が破滅である理由は、マジョリティー(多数派)の人々も、結局はマイノリティー(少数派)の集まりであるからだ。


ある作品について、大好きなのか、まぁまぁ好きなのか、可・不可で言えば可なのか、実はよくわかっていないけれど、とりあえず好きの側にいるのか。
人の好みのレベルはグラデーションになっているはずなのに、全体主義はそれを好き・嫌いと白黒ではっきり分け、塗りつぶしてしまう。
そうなってしまえば、まぁまぁの人も、可レベルの人も、全て大好きな人たちとしてにまとめられてしまう。
自分の認知の些細な違いを無視され、一緒くたにまとめられてしまう。
無理に押し潰された気持ちの不和はどこへ行くのか?


大多数の人間に認められたものしか存在しない世界では、彼らマイノリティーの心を救うものはない。
行き場のない気持ちがどこへ行くのか。
押さえつけられた気持ちがいつか破裂し、膿を吐き出す未来は想像にかたくない。

 

 


文学とは、個人が作り出したごく個人的なものである。
そもそも、人が生きることもごく個人的なことである。
役立つ人は生きるべきとか、役立たない人は排除すべきとか、そういう次元ではないのだ。
人は誰かの役に立つために生きているのではない。

 


確かに、自分のやりたいことや自分の行いによって誰かが喜んでくれたり、人の役に立ったりするのはとても嬉しいことだろう。
だが、それはあくまでプラスアルファのことである。
生きることは、命があるということは、ただそれだけでいいということなのだ。


「みんなの役に立つからいい命」というものではない。


作品を見て、聞いて、感じて、面白いと思うこと、つまらないと思うことが、ごく個人的なことであるように、生きることもまた、ごく個人的な営みだ。
そのごく個人的な営みにメスを入れ、矯正しようとする者が何を狙っているのか。
何を企んでいるのか。


人間の個性を潰し、画一化した機械のような民衆を作り出していくことで、どんなメリットがあるのか。
モノ言わぬ民衆、政府の言うことに右にならえで歯向かわない民衆。
それらを作り上げることで、得をするのは誰なのか。私達はいつも目を光らせていなければならない。

 


この演劇のラストが示すものは、「弾圧されても、抑圧されても、それでも文学は立ち上がる」というメッセージだと私は思う。


確かに、立ち上がるだろう。
しかし、それは十年後だろうか、二十年後だろうか。
あるいは五十年後、百年後かもしれない。
かつて古代ギリシャの文明が四百年間も失われ、暗黒の中で断絶してしまったように。

 


今、何が滅びようとしているのか。
誰が滅ぼそうとしているのか。
私たちの心が、貧しさのために何を排除しようとしているのか。


私たちは常に、感性を研ぎ澄ませていなければならない。
それが、今生きている者の使命だと、私は思う。

 


最後に、この大変な時期にこんなにも素晴らしい演劇を作ってくださったスタッフ、キャストの皆様に、最大限の賛辞を送ります。


参考文献

・舞台『文豪とアルケミスト  綴リ人ノ輪唱』
・映画『この道』
・『古代ギリシアの歴史ポリスの興隆と衰退』
  (伊藤貞夫・講談社学術文庫)

芥川があこがれたものは何か?

 

芥川があこがれたものは何か?
芥川龍之介『蜜柑』と志賀直哉『流行感冒』の比較からー


比較図書
蜘蛛の糸杜子春』より『蜜柑』
 (芥川龍之介 新潮文庫


小僧の神様・城の崎にて』より『流行感冒
 (志賀直哉 新潮文庫


f:id:ZenCarpeDiem:20200911201614j:image

〈はじめに:
  芥川龍之介があこがれたものは何か?〉


芥川龍之介谷崎潤一郎との文学論争の中で発表された文学評論『文芸的な、余りに文芸的な』の中で、芥川は志賀直哉を絶賛している。


たとえば、


志賀直哉氏は僕等のうちで最も純粋な作家
志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きてゐる作家の作品である
・人生を立派に生きることは第一には神のやうに生きることであらう
志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家である。
志賀直哉氏は描写の上には空想を頼まないリアリストである。その又リアリズムの細に入つてゐることは少しも前人の後に落ちない。若しこの一点を論ずるとすれば、僕は何の誇張もなしにトルストイよりも細かいと言い得るであらう。


(『文芸的な、余りに文芸的な』より抜粋)


要約すると、芥川から見た志賀直哉は人生を立派に生きている純粋で清潔な作家であり、それこそ神のように人生を立派に生きている。
また、小説の上ではリアリズムに徹し、曖昧な空想に逃げることもない。
文体におけるリアリズムの微細な表現は、トルストイよりもすごい。


超訳すれば、「志賀直哉は人生を堂々と生きていて羨ましい。自分はすぐに空想の世界に逃げてしまうが、彼は自分の人生に対しても、リアリズムで作られる自身の小説世界に対しても、なぜ臆せず堂々と立ち向かえるのだろうか?」といったところだろうか。

 


古典から題材を取り、物語の創作を主とする芥川龍之介と、私小説を主軸とする志賀直也の作品は違いすぎて比較が難しい。
だが、基本のストーリーが同じ小説を比較すれば、両者の違いがはっきりと見えてくる。
芥川龍之介志賀直哉の文学のどこに惹かれたのか?
志賀の何をうらやましいと思い、自分には何が無いと嘆いたのか。
芥川『蜜柑』、志賀『流行感冒』の比較を通して、芥川の憧れを具体的に解剖していきたい。


また、芥川は人生の後半において、「話」らしい「話」のない小説への憧れをみせた。
そのためか、晩年は自分で自分の作品を否定した。
芥川の晩年の作品『歯車』では明確なストーリーはなく、主人公の心理描写をひたすら書き連ねるといった作品作りをしている。
これらの事実も合わせて考えると、芥川があこがれたものがより見つけやすいだろう。

 


〈研究方法〉


1.なぜ、『蜜柑』と『流行感冒』を比較するのか?


この二つの作品はストーリーの大筋が同じであるため、比較がしやすい。
以下、両作品の共通点である。


・ストーリー構成
 (身分の高い男性主人公が身分の低い少女に対し、はじめは嫌悪感を抱いている。
  しかし、作中の出来事をきっかけに少女に対する認識が変わり、少女に好感を持って終わる)


・一人称視点
  (主人公「私」視点)

 


2.作品のあらすじ


※なお、評論の都合上、がっつりネタばれしております。
 気になる方は青空文庫や書店などで作品を読まれてから下記に進むことをおすすめします。

 


芥川龍之介『蜜柑』


ある冬の日暮れのことである。
横浜発の上り列車の二等客席で、疲れた男が列車の発車待ちをしていたら、向かいの席に小娘が乗ってきた。
小娘は13、4歳ほどで、大きな風呂敷包みを抱え、霜焼けの指には三等客席の切符が握られていた。
男はこの小娘を不快に思った。
下品な顔立ちも、垢じみた不潔な服装も、二等客席に三等客席の切符で乗り込んだまま、それに気づかない愚鈍さも。
男は目の前の不快な小娘の存在を意識から抹消しようと、夕刊を取り出す。
だが、夕刊の記事はどれも平凡で退屈で、男の憂鬱を慰めてはくれなかった。
男はあきらめて目をつむり、汽車の揺れに身を任せた。


しばらくして目を開けると、向かいに座っていたはずの小娘が自分の隣に移動しており、しかも窓を開けようと躍起になっていた。
もうすぐトンネルに入るというのに? 男はけげんに思いながらも、小娘が窓枠と格闘するのを突き放したような目で眺めていた。
汽車がトンネルへ入ったと同時に、小娘がいじっていた窓がばたりと開いた。
同時に、トンネル内で凝縮されたどす黒い煤煙が車内へなだれ込んできた。
元々のどを痛めていた男にとって、これはきつかった。男は激しく咳き込んだ。
小娘は咳き込む男に目もくれず、大きく開いた窓から身を乗り出し、毅然と前を見すえている。
男はこの小娘を叱りとばして窓を閉めさせようと思ったが、咳が治まったときには汽車はトンネルを抜け、あるさびしい踏切にさしかかろうとしているところだった。
男はその踏切に、背の低い男の子が三人ほどいるのを見つけた。
男の子たちは汽車を見るなり、何か大声で叫び始めた。
その瞬間だった。
窓から身を乗り出していた小娘が、懐から暖かな色を降らせた。
日の色に染まった蜜柑が五つ、六つ、汽車を見送る男の子たちのもとへと降りそそいだ。


男は理解した。
この小娘は家を出て、これから奉公先へと赴くのだろう。
そして、自分を踏切までわざわざ見送りにきた弟たちのために、蜜柑を降らせ、その労に報いたのだろう。


小娘は再び男の向かいに腰を下ろした。相変わらず、その手には三等切符が握られている。
男はまるで別人でも見るような目でこの小娘を見た。
男の心には、ほがらかな気持ちがわき上がっていた。
そして、彼の心を支配していた疲労と倦怠、退屈な人生を、束の間忘れることができた。

 


志賀直哉『流行感冒


最初の子どもを亡くした男は、二人目の子:佐枝子(さえこ)の育児に対して神経質になっていた。
彼は妻とまだ赤ん坊の佐枝子、二人の女中(石、きみ)の五人で暮らしており、女中たちにも体調管理ついて口うるさく行っていた。


とある秋、町では流行性の感冒(カゼ)が猛威を奮っていた。
毎年女中たちを見せにやっていた夜芝居の興業も、今年は感冒が流行っているため行くのを禁じた。
そんな中、女中の石(いし)が「薪が無くなったので知人の家にもらいに行く」といったきり、夜遅くまで帰ってこない。
結局、深夜1時くらいまで石は帰ってこなかった。


これは夜芝居を見に行ったのではないか?
男は石を問い詰めるが、石はきっぱりとこれを否定した。
あまりにもはっきりした否定に、男もそれ以上聞けなくなってしまった。
だが、どうも腑に落ちない。


石に嫌悪感を抱いた男は、石から無理やり佐枝子を取り上げる。
いたたまれなくなった石はきみを連れ、逃げ出してしまう。
女中がいなくなった家は途端に不便になった。

 


その日の夕方、石と石の母親ときみの三人が家へ来た。
石の母親は娘の非礼をわび、暇を出してもらってもかまわないという。
男も石を追い出すつもりだった。
だが、妻に懇願され、すんでのところで踏みとどまることにした。

 


結局のところ、石は芝居を見に行っていた。
それだけでなく、自分の母親に「きみと二人で芝居に行った」と嘘を重ねていた。
(きみは深夜まで家で作業をしていたので、芝居を見に行くのは不可能である)
自分の嘘に他人を巻き込んで平然としている石に対して、男はますます嫌悪感を募らせた。

 


それから三週間ほど経ち、流行感冒の猛威もだいぶ収まってきたころ。
警戒心の解けた男は、離れの庭を整備すべく、家に植木屋を呼んだ。
男は数人の植木屋とともに共同で作業をした。
男は流行感冒にかかってしまった。感染源は植木屋たちだった。


流行感冒は男から妻へと伝染した。
そして今度はきみが病に倒れた。
男はきみを一端実家へと帰したが、きみの容態はよくならず、肺炎へと悪化してしまう。
ついには佐枝子も罹患してしまい、家の者で健康なのは石だけになってしまった。

 


石はよく働いた。
人手が足りないので昼間はいつもの倍以上働かねばならないのに、夜も佐枝子の世話をした。
佐枝子は寝付きが悪く、寝かしつけてもすぐに起きて暴れ出してしまう。


男が夜中に佐枝子と石がいる部屋をのぞいてみると、石は横にもならず、座ったまま目を閉じて佐枝子をあやしていた。
男は石に好感をもった。


男はあれほど皆に体調管理について口うるさく注意をしておきながら、自分が病を家に持ち込んでしまった。
一方、暇を出すと言われた石だけが感冒にはかからず、皆の世話をしている。
男は石に皮肉の一つでも言われるのではないかと恐れたが、石にそんな素振りは全くなかった。

 


石はただ一生懸命に働いた。
その頑張りは、以前の失態を挽回しようという下心のあるものではなく、ただ皆が困っているからできるだけ働こうという気持ちから出ているものらしかった。


…長いこと楽しみにしていた芝居があり、どうしてもそれに行きたかった。
だから嘘をついて見に行った。
(その嘘はだんだんとこんがらがっていってしまったが)
芝居を見に行きたいという思いからついた嘘と、皆が困っているからできるだけ働こうという気持ちは、石の同じところから出てきたように思われた。

 


一ヶ月ほど経ち、肺炎になったきみが回復して戻ってきた。
それまで非常によく働いていた石だが、以前と同じ働きぶりに戻ってしまった。
だが、男は石に対して悪い感情は持たなかった。
失敗して主人に叱られることもあるが、石は不機嫌を長引かせて周囲を困らせることはしない。
叱られても、三分も経てば普段通りに接することができた。

 


それからしばらくして、石に結婚の話が来た。
結婚の準備のために石が実家へと帰ると、家の中は大変静かになった。
男は妻に言った。
「石が嘘をついて芝居を見に行ったとき、追い出さなくて良かった。もしあの時追い出していたら、お互い嫌な主人と嫌な女中という形で頭に残ることになった」
妻もしみじみと返した。
「石は欠点もあるけれど、良いところもたくさんありますからね」

 


一週間ほど経った頃、石が急に家に来た。
突然の訪問に驚いた男が妻にわけを聞くと、石は妻からの「嫁入りまでの間で機会があればいつでもおいで」というはがきをもらい、すっ飛んできたそうだ。


石は今、きみと一緒にかつてのように働いている。
もうしばらくしたら、石は嫁に行く。
男は石の結婚が幸せなものであるよう願った。

 


〈比較結果〉


あらすじの文量からも分かるとおり、『蜜柑』はたったの6ページ、『流行感冒』は29ページの上下編構成と、作品のボリュームは大きく異なる。
ページ数が多いぶん、『流行感冒』のほうが人物描写が細かく書かれており、立体的な人物像を描きだしている。

 


1.『蜜柑』の良さ


『蜜柑』の良さはストーリーの切れ味にある。
男の小娘に対する認知の反転(嫌悪から好感へ)はとても鮮やかである。


また、色彩の効果もすばらしい。
冬の日暮れと男の感じる退屈さのイメージから連想される灰色。
列車の内装はとくに言及されないが、窓の外の風景は「うす暗いプラットフォオム」という寂しく生気の無いイメージで描かれている。


『蜜柑』の少女は色のあるものを身につけてはいるが、「垢じみた萌黄色の毛糸の襟巻き」や、「三等の赤切符」など、ポジティブなイメージはない。
だからこそ、弟たちのために放たれた「心を躍らすばかり暖な日の色に染まっている蜜柑」がひときわ目立つ。


冬の寒空と蜜柑の色(暖な日の色)との鮮やかな対比、男の中の灰色でくすんだ世界に彩りが加えられたことがより際立つのだ。

 


『蜜柑』のストーリーは、少女の行動により、男の世界が変わるというシンプルなものである。
無駄のないたった6ページの短編だからこそ、男の気持ちの変化がはっきりと分かる。
爽やかな余韻も感じる。
だが、それはあくまで「物語の中」だからだ。

 


2.『流行感冒』の良さ


『流行感冒』のストーリーを乱暴にまとめると、嘘つきの女中を解雇しようとしたが妻に懇願され、解雇を踏みとどまった。その後、自分たちが病気になってしまい、嘘をついた女中はすばらしく働いてくれた…という話である。


人間には良いところと悪いところ、両方あるから一面だけを見て判断してはいけないねという教訓じみた話にまとめることもできるが、この話の肝はそこではない。
どちらかというと、この話は「人間に二面性などない」ということを言いたいのではないだろうか。

 


以下、家族が皆感冒にかかってしまい、石が一生懸命働いてくれたことに対する主人公の男の言葉である。


「普段は余りよく働く性(たち)とは云えないが、想うに、前に失策をしている、その取り返しをつけよう、そう云う気持からではないらしかった。もっと直接な気持かららしかった。私には総てが善意に解せられるのであった。私たちが困っている、だから石は出来るだけ働いたのだ。それに過ぎないと云う風に解(と)れた。長いこと楽しみにしていた芝居がある、どうしてもそれが見たい、嘘をついて出掛けた、その嘘が段々仕舞には念入りになって来たが、嘘をつく初めの単純な気持は、困っているから出来るだけ働こうと云う気持と石ではそう別々な所から出たものではない気がした。」

 


自分がやりたいことのために嘘をつくことも、病気の人たちのために一生懸命働くことも、その根っこにあるものは同じである。
だから前の失策を挽回するためにがんばろうという下心などないし、叱られたことに対していつまでも根に持つという陰険さもない。


人の良いところも悪いところも、その源は一つであり、見る方が勝手に良い面と悪い面に切り分けているだけである。


言われてみればまあそうかと納得するが、それを腹落ちさせるだけの技量が志賀の作品にはある。
美点も欠点もある、これこそが人間だと思わず膝を打ってしまうのだ。
志賀が描く人間はリアリティがあり、親近感があり、ほんとうに身近にいそうなのだ。


『蜜柑』はあっと言わされるほどに展開が鮮やかだ。
いっぽう、『流行感冒』にはそういった驚きはない。あるのはリアリティと人間だ。

 


『蜜柑』の少女より『流行感冒』の石のほうが圧倒的にリアリティがある。
石の良いところと悪いところ、両方が見えるからこそ、男が石に対して抱く好感の深さが分かる。
もちろん、紙面の都合ではあるだろうが、もし『蜜柑』の少女について長々とマイナスな面まで語ってしまったら、少女に対する男の感動は薄れてしまうだろう。
言い換えれば、『蜜柑』は少女の悪い面が見えないからこそいいのだ。
善人しかいないおとぎ話の世界にある感動なのだ。

 


〈まとめ〉


文芸的な、余りに文芸的な』から再度引用するが、芥川は小説の美点として、「構成的美観」を挙げている。


「デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は『話』の上に立つものである」


上記の言葉から分かるように、芥川はしっかりとした骨組み(ストーリー)を持ち、緻密に構成された小説を目指した。
無駄をそぎ落とし、一分の隙も無く組み立てることで、たった6ページの文量で読者をシンプルに感動させた。


一方、志賀の作品は「読者を感動させる」とか「ストーリーに読者を引き込む」とか、そういった明確な目標のもとには書かれていないと思う。
はっきりとしたストーリーはなく、細やかな日常の描写を重ねていく。
その積み重ねの中で織り上げられた人物像は、ガツンとくる派手さは無いものの、じんわりと染み渡るように心に浸透する。
物語の世界であっても、キャラクターにリアリティがあるのだ。

 


もちろん、これは「どちらが優れているか?」という比較ではない。
無駄のない設計を求めることも、空間に遊びを残すことも、どちらもすばらしいことに変わりはない。

 


ここからは私の想像である。
芥川は志賀の文体に憧れ、自身のモットーであった「構成的美観」を捨て、「話」らしい「話」のない小説に挑戦した。
一方、志賀は自身のスタイルを特に変容させることはなかった。
(私の調査不足により、間違いがあったらすいません)


もし、お互いがお互いのスタイルに憧れ、志賀も芥川のスタイルを真似ることがあったなら、芥川はそこまで神経衰弱にはならなかったのではないか。
まあ、志賀は自分のスタイルに疑いを持たぬ人だったから、芥川はより「神のように自分の人生を立派に生きている人」として志賀にあこがれたのかもしれない。


不平等なあこがれが、芥川を破滅に導いたのかもしれない。


 

辛口レビューの使い方


f:id:ZenCarpeDiem:20200818131919j:image

『書評の仕事』(印南敦史・ワニブックス【PLUS】新書)を読んで。

 


私は自分の選別眼にかなりの信頼を置いている。
ここ3ヶ月間に買った本でいわゆるハズレに当たるものはなかった。
どの本も面白く、様々な知識を私に授けてくれた。


しかし、久々に「帯には『秘密も技術も大公開』と書いてあるけれど、何一つ明らかにされてませんが?」とつっこんでしまう本に出会った。
この本を記憶からはじき出し、無かったことにするのはたやすい。
だが、それでは私の払った830円(+税)に申し訳ない。


私はお金をどぶに投げたのではない。
自分への投資として830円(+税)を快く送り出したのだ。
つまり、私はこの830円(+税)を自身の血肉にするという義務がある。


疑問符が浮かびまくる本にも、使い道はある。
転んでもただでは起きない。
そんな私が送る、辛口レビューの生かし方です。

 


『書評の仕事』に書いてあること


1 書評家の『秘密』
2 書評家の『技術』

 


1 書評家の『秘密』


どうやって年間500冊もの書評を書いているのか?
書評家のお給料は?
フリーランスとしての働き方は主に自分との戦いだが、筆者はどうやって乗り越えているのか?


耳慣れない職業に対して、湯水のように湧き上がる疑問たち。
しかし、筆者の答えは全てネット検索でまかなえます。


本は全部読まない。一部を重点的に読み、そこだけで書評を書く。
一記事原稿料10万円……なんてうまい話はないので、それより1,2ケタ違う。
サボってしまう人は、「自分は時間を有効に使っているか」と自問自答しよう。


いやいやいやいや。
読者が求めていた答えってそんなぺらっぺらな回答じゃないよね。

 


本は全部読まない、だなんてネットで1億回は書かれているし。
9万円~1,000円の範囲の答えなんてほぼ答えていないに等しいし。
最後はただの精神論だし。


読者が求めていた回答は、そんなネットの海にうようよ浮いてるプラスチックごみみたいにありふれたものではない。
たとえ最終的にはありふれた回答になったとしても、筆者の生活や人生の中から悲哀や歓喜と共に生み出されたものが聞きたかった。

 


2 書評家の『技術』


もっともらしいことは書いてあるが、これもほぼ全てネット検索でまかなえることしか書いていない。


・読まれる書評は、読者像が明確である
・自分を出すべきか、否か。発表媒体に合わせる
・「センス」と「コツ」をみがこう

 


作中では筆者が書評を書いている「東洋経済オンライン」や「マイナビニュース」などの読者層について、筆者自ら解説している。
しかし、この本の読者をどのように想定しているのかはどこにも書かれていない。
ターゲットが不明確という致命的なミスがこの本をふわふわした根無し草にしている。


そして、ターゲットが不明確なため、この本において「自分を出さない」という愚かな決定を下した。
書評家というニッチな世界で生きてきた人が、自身の天職と信じて長年渡り歩いてきた世界について一冊書き下ろすのだ。
ここで自分を出さなくてどうするの? 今でしょ!! って感じなのだ。


おそらく、書評家・印南敦史(さん)という名前でわざわざ検索してこの本を手に取った人もいるはずだ。
その人たちの落胆はいかほどだろう。
ブルーオーシャンの片隅で第一線を走ってきた人の思いや苦労が詰まった珠玉のエッセンスが読める……! って思ったら、ネットの記事をコピペしましたみたいな、カッスカスの文章の羅列。
盛大な肩すかしを食らってしまった。
吉本新喜劇並みにすっころんだ。

 


もちろん、書評において大事なことは何か、ということには言及してくれています。
筆者曰く、「センス」と「コツ」だそうです。
「極端な話、文章力が足りなかったとしても、センスがあればなんとかなるもの」とまで言っています。
じゃあ、その「センス」とは何か? それについては一切書かれていません。
「センスは磨き、育てることができる」とは書いてあるけれど、じゃあその育てるべき「センス」とはどういうものなのか、全く定義されていないのです。


いやいやいやいやいや。
年間500本の書評を書いてきた印南さんだからこそ考える「センス」というものがあるでしょう?
読者が知りたいのはそこなんだけど。
その後筆者は「センスが磨かれていけば、やがてそれを活用するために有効な『コツ』が浮かんでくる」と続けるのですが、「センス」の定義がない以上、「コツ」についてもあやふやなイメージしか浮かびません。


センスをみがこう! 何回も書いてコツをつかもう! …そんなの言われなくても誰もが知っていることだ。
そこに対して、筆者なりのエッセンスが一滴でも入っているなら良かった。
筆者は「センス」をどういうものだと考えていて、そのために何をしてきて、膨大な経験からどんな「コツ」を掴んだのか。
それは全く書かれていない。 

 


この本を宿題本として捉える 「オリジナリティ(独創性)」をもとに


ここまで、『書評の仕事』という本のすっかすかぶりを語ってきた。
この穴あきチーズな本に対し、不満をわめき散らすのは簡単だ。
人生も穴あきチーズも考え方次第。隙間が空いているのなら、自分が埋めてやればいい。


筆者が書評を書く上で大切にしていることの一つに、「オリジナリティ(独創性)」があります。
一応、「オリジナリティ(独創性)」については筆者が補足の説明をつけています。
それによると、「オリジナリティ(独創性)」とは、


・自分らしさが出ている
・自分にしか書けない
・人の真似ではない


だそうです。
まるで就活本かと思うような補足説明です。
要は「真似ではなく、自分から出たもの」ということなので、オリジナリティ(の、元であるオリジン・起源)を日本語に訳しただけに過ぎません。


日本語には訳したから、後は自分で考えなさいという宿題なのでしょう。そうしよう。
というわけで、私が考えた「オリジナリティ(独創性)」についてです。

 


私の考える「オリジナリティ(独創性)」とは、「感性」です。
なぜなら、同じ出来事でも人によって抱く感想が違うからです。


同じ本を読んで、「感動して震えた」という人もいれば、「キャラクターが自意識過剰すぎてついて行けなかった」と思う人もいます。
感じ方に善悪はない。
「面白い」も「つまらない」も、等しく尊い


私たちは日々いろいろなものに触れ、受け入れ、拒絶している。
そのたびごとに「面白い」や「つまらない」を感じる。
しかし、その感情は一時のもの。瞬きのあいだに消えてしまう、はかないものだ。


日々生まれ、消えていく自分のかすかな気持ち。
その気持ちはどこから来たのか。なぜ、自分はそう思うのか。
消えていくうたかたをすくい上げ、その色や形を確かめるように、自分の気持ちに向き合う。
その積み重ねが、「感性」という自分だけの感じ方を作り上げる。
同じ出来事であっても、「感性」の起源が違うので、自分なりの受け取り方ができるのだ。

 


話は変わるが、私は『山月記』(中島敦)に感銘を受けた人とは仲良くなれると思っている。
なぜなら、『山月記』が描き出した「創作という恥ずかしい行為」「自分は大物だと思いたいプライド」に対し何かを感じた人なら、その「感性」の根源には私と似たものがある可能性が高いからだ。


(ちなみに、創作が恥ずかしいのではなく、創作を「恥ずかしい」と思ってしまうどうしようもない弱さを持った自分、という意味です。)

 


オリジナリティとは、自分の感じ方の積み重ねが培った「感性」である。
だから、自分の気持ちはどんなものでも大切にすべきだし、なぜそう思ったのか、自分の気持ちの奥にある理由をしっかりと見つめるべきだ。


以上が、筆者からの宿題「オリジナリティ(独創性)」に対する私なりの回答です。

 


もっと知りたかったこと


全207ページのこの本の172ページ目、ラスト35ページでようやっと筆者の後ろ姿が見えてきます。
筆者の書評、感性の根底にあるもの。
それは音楽です。


筆者は「ヒップホップと自信」という章節で、ヒップホップ(特にラップ)と自信について述べます。


「そしてもうひとつのポイントは、ラップでした。具体的には『ことば』で勝負をかけるラッパーたちが多かれ少なかれ共通して持っている『絶対的な自己肯定感』に勇気づけられたのです。
 『俺はすごい』『俺が一番』『俺は強い』などなど、ビッグマウスであることは初期のラッパーの必須条件でした。もちろん、いまでもその傾向は引き継がれていますが、当時は「ゲーム」の一環として、それがもっと大げさだったように思います。つまり、偉そうな口を叩くことが、ラップ・ミュージックを魅力的に感じさせていたわけです」

 


「センス」だの「コツ」だの「オリジナリティ(独創性)」だの、借りてきた猫のように大人しい言葉たちとは打って変わって、この文章には筆者の息づかいと興奮が感じられます。
私自身がラップ・ミュージックについて馴染みがあることもあり、ラップの良さを再確認させる言葉にとても共感します。


こんなに生き生きとした文章を書けるのに、ここまでの171ページはいったいなんだったのか。
焼き直しされまくった就活本のような、使い古されたあのぺらっぺらの言葉たちは。
全ページ音楽がらみの話でいいから、筆者の肉声で語られる文章が読みたかったです。

 


「論理国語」が支配する世界


この本に書かれている、ネットの記事をコピペしたような無味乾燥の文章を読んでいて、気づいたことがあります。


現在、高等学校の学習指導要領が改訂され、国語の科目が「論理国語」と「文学国語」の選択制になるため、文学が軽視されている! という意見が上がっています。


一応、現在の「国語総合」にあたる「現代の国語」という科目が必修科目として新設されるます。
しかし、この「現代の国語」という科目は、従来の「国語総合」とは違い、文学的な内容を含んでいません。


たとえば、「現代の国語」の「読むこと」の指導事項における「構造と内容の把握」という事項では、


 文章の種類を踏まえて、内容や構成、論理の展開などについて叙述を基に的確に捉え、要旨や要点を把握すること。


を、目標にしています。


次のページにある「精査・解釈」の事項では、


 目的に応じて、文章や図表などに含まれている情報を相互に関連づけながら、内容や書き手の意図を解釈したり、文章の個性や論理の展開などについて評価したりするとともに、自分の考えを深めること。


が、目標になっています。
「図表からの解釈」など、完全に説明文の範疇です。
選択科目にある「文学国語」を選ばなかった場合、生徒が文学作品に触れる機会はほぼなくなってしまうのでしょう。
古典で少し触れるくらいでしょうか。
(正直、古典は訳すこと、古語文法を教えることだけで手一杯で、作者の思想や登場人物の心情まで掘り下げることはかなり難しいです)

 


話を戻しますと、この本を読んでいて思ったのは、「『論理国語』しか読んでこなかった人の文章ってこんな感じなのでは?」ということです。


この本の文章は間違っているわけではありません。
筋もしっかり通っています。
ただつまらないだけです。


わかりきったことをよくある言葉で説明し直しているだけなので、「ふーん」としか思えないのです。
個人の体験から得られた血の通った言葉も、たぎるような気持ちも書いていないので、理解以上のものを得られないのです。
心が動かされることがない。

 


筆者の印南氏は、小説ももちろん読んでらっしゃいます。
お気に入りの作者も、本書に出てきます。
しかし、メインの仕事は「ライフハッカー」「東洋経済オンライン」「マイナビニュース」などに実用書やビジネス書の書評をあげることです。
つまり、論理国語にどっぷりと浸っているわけです。


論理国語だけで育った人間の文章がどれだけ退屈でつまらないものか。
退屈でつまらないものに、誰が魅力を感じるのか。
そんな文章を書く人たちを大量生産して、どんな未来があるというのか。

 


グローバル企業の幹部たちはロイヤルカレッジオブアート(美術系大学院)に勉強しに行っているというのに!
(「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?」山口周・光文社新書より)


論理は一方通行であり、迷うことはありません。
効率を追い求めることと同じく、ゴールが明確です。
明確なゴールに向けての競争で勝てるのは、たった一人です。
一番質がよくて一番安いやつが一番売れる。


でも、実際はそうではありません。
使いにくかったり、値段が高かったりするものでもヒットします。
フェアトレードなど、売り手側の意思やストーリーが伝わればファンがつきます。

 


話が脱線しました。
世界がアートや感性の世界を重視しているというのに、日本の教育はそこをぶった切って実学のみに舵をとろうとしている。
「論理国語」が支配する世界、私は反対です。
 くっっそつまんねえもの。

 


まとめ


・『書評の仕事』という本は、ネットのコピペレベルの内容です
・ P173からの音楽がらみの話は筆者の姿が見えて、面白いです
・「論理国語」が支配する世界は、味家のない非常につまらない世界だ

 


もちろん、本は一人では作れません。
編集者の人は、原稿の時点で「おもしろくねえな……」とは思わなかったのだろうか。
我が家の本棚にはワニブックスPLUS新書は無かったので、今度買うときは中身を要チェックだな。
お金は大事です。

 


〈参考図書〉


f:id:ZenCarpeDiem:20200818131833j:image

・世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」
 山口周 光文社新書


f:id:ZenCarpeDiem:20200818131843j:image

・世界観をつくる 「感性×知性」の仕事術
 水野学 山口周 朝日新聞出版


f:id:ZenCarpeDiem:20200818131853j:image

・D2C「世界観」と「テクノロジー」で勝つブランド戦略
 佐々木康裕 ニュースピックスパブリッシング


世界のエリート(大企業の幹部)が美意識を鍛えるのはなぜか、という疑問を切り口に、資本主義社会の到達点に達した私たちが今後は何を目指すべきかということを教えてくれます。
「世界観をつくる」のほうは、「ストーリー作り」をテーマに、商品開発や企業のビジョンなどについて語っています。


D2C=Direct to Consumer(ダイレクト トゥ コンシューマー)
直接消費者に届ける、という企業活動についてです。「世界観をつくる」という本の内容の実践例みたいな感じで、たくさん事例が載っています。

 


f:id:ZenCarpeDiem:20200818131818j:image

・AIに負けない子どもを育てる
 新井紀子 東洋経済新報社


「AIvs教科書が読めない子どもたち」の続編にあたる本です。
文科省が身につけさせたい「契約書などの実用的な文章を読む力」の鍛え方についてのヒントが載っています。


文章を読むスキルには、「書いてあることを、飛ばしたり勝手な解釈をつけたりせず、そのまま読む」というものがあります。
これはリーディングスキルテストというテストで計れる能力です。


この本の冒頭部で紹介されているリーディングスキルテストの問題を引用します。


・幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた。
・1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた。


以上の二文は同じ意味でしょうか。


ん? と思って読み直した人は、主述の関係やてにをはの違いがもたらすニュアンスを理解して文を読んでいる人といえるでしょう。
もちろん、上記の二文は意味が違います。
しかし、教育現場ではこういった、似た表記だが意味は異なる文章を書いてきて、「キーワードとなる語は全部合っているから、部分点が出るはずだ」などと考える生徒が少なからずいるそうです。
ちなみに、中学生の正答率は57%だそうです。

 


・わたしがマグロを食べた。
・わたしがマグロに食べられた。


上記の文は三文字しか違いませんが、意味は全く異なります。
短文なら理解できても、長文になったり難しい単語が出てきたりすると、途端に理解が追いつかなくなってしまう。
単語を適当に拾って、頭の中で好き勝手につなげてしまうのです。
これが、ただ本を読むだけでは国語の成績が上がらないという証拠です。

 


文学国語においても論理国語においても、ただ文章を読むだけでは読解力は上がらないのです。
(なので、いくら論理国語の時間を増やしたからといって、契約書が読めるようになるのかなあ……と、私は思います。
 契約書こそ、てにをはが大事だと思うので。)

 


個人的には視写と音読にヒントがあるのでは? と考えていますが、まだまだ勉強不足なのでここでは語りません。
最後に、ヒントになりそうな書籍を一つ紹介して、終わります。


・視写の教育ーー〈からだ〉に読み書きさせる
  (シリーズ『大学の授業実践』)
 池田久美子 東信堂
 
f:id:ZenCarpeDiem:20200818131804j:image

万年筆について その2 インクという彩りの世界へん


f:id:ZenCarpeDiem:20200727204628j:image

通販で買った万年筆が不良品でショックを受けたり、
雑誌の付録の万年筆を気に入ったけれど、替えのカートリッジが分からず、泣く泣くあきらめたり、
最初は運命のいたずらに翻弄されましたが、
3本目に当たるカクノ、4本目のキャップレスデシモと出会い、快適な万年筆生活を迎えることができました。

 


当時は、


 ・家での日記など、ちょい書き → カクノ(M・ブルーブラック)
 ・職場で気合いを入れたい時、手帳用 → キャップレスデシモ(F・色彩雫の竹炭)


という感じで使い分けていました。


この二本だけで満足し、しばらくは新しい万年筆に手をだそうとも思いませんでした。
転機となったのは、美しいボディカラーの万年筆と出会いでした。

 


5本目:セーラー(F・赤)


f:id:ZenCarpeDiem:20200728002354j:image

キャップレスデシモを手に入れて半年ちょっと過ぎたころ。
ハンズメッセで目当ての品物を購入し、満足した気持ちで文具コーナーをうろついていたら、なんとハンズメッセでは万年筆(一部の商品をのぞく)も割引になっているではありませんか!


ディスカウントされ3,000円ほどになっていたのは、セーラーの赤いボディの万年筆でした。美しい赤いボディを見て、


「この赤いボディに血みたいな赤いインクを入れたらめちゃくちゃかっこよくない!?」


と、直感で思いました(発想が中二病)。
このとき初めて、“ボディカラーに合わせてインクを選ぶ”という楽しさを知りました。


商品を軽く持たせてもらい、手への収まりを確認したところでお買い上げ。
一緒に純正のカートリッジ式の赤インクも購入しました。

 

 


実際に赤インクを入れた万年筆を使ってみると、とっても新鮮な感じがしました。


いつの間にか刷り込まれていた、


 ・黒 → 普段の筆記用
 ・赤 → 重要部分や丸つけなど、特別な時用


という思い込みががらがらと崩れていきました。


赤いインクで日記を書くと、一ページがまるまる赤く染まります。
やべー! なんかめっちゃいけないことしてる感じがする! 悪いやつになったみたい!!(小6男子の感想や…)

 


私の発想はともかく、なんだか目からうろこが落ちるような感覚でした。


「文字に色がつくのは、特別な時だけ」


そう思っていた世界に虹がかかりました。


私のおすすめは、イヤなことがあった日やブチ切れているときに赤インクを使って日記を書くことです。
色の相乗効果で完全燃焼でき、スッキリするのでおすすめです!

 


色つきの文字を書く楽しさに目覚めた私は、少しずつ色の世界に手を伸ばし始めました。 

 


6本目:カクノ(F・色彩雫躑躅つつじ)


f:id:ZenCarpeDiem:20200727204819j:image

東急ハンズで売り出されていた「カクノ・色彩雫のミニ瓶・コンバーター」のセットです。赤紫のインクがとってもキレイ!


7本目:ペリカン ツイスト(F・四季色の金木犀


f:id:ZenCarpeDiem:20200727204828j:image

試しに手にとってキャップを取った瞬間、確信しました。
このボディにはオレンジだ、と。


そうです、弐号機カラーです!


8本目:IWI Safari 

              気高き孔雀(EF・三光堂オリジナルインクの鶴舞ブルー)


f:id:ZenCarpeDiem:20200727204806j:image

ボディの美しさに一目惚れしました。
まずネットで存在を知ったのですが、いかんせん字幅がEF(めっちゃ細い)だったんですよね。
ペン先の細い万年筆ってインクフローがよくなさそうだし、私はぬらぬらインクが出るほうが好みだし…。


あと一歩が踏み出せなくて尻込みしていたところ、ちょうどシーサーさんのチャンネルで同品のレビュー動画が出てたので、それをチェック。


動画でのインクフローは良さそうだったので、購入を決定しました。
(あと、この動画を見ていなかったら余分にコンバーター買ってたと思う。あっぶね!)


実際に購入して分かったことですが、この万年筆、とても細いです。
ボールペンより細いのでちょっとびっくりしました。

 


国産万年筆と外国産万年筆について


ペリカンツイストはドイツ製、IWIのSafari台湾製なのですが、正直に申し上げて、この二本は私の手になかなかなじみませんでした。


書いていると、「さ」「き」などの一画目の横画がインク飛びを起こすんですね。
1,000円くらいのカクノを使っていたときは一切そのようなことは無かったので、けっこうイライラしました。
毎回インク飛びが起こるわけではないけれど、万年筆は「サラサラ書けて当たり前」と思っているので。
書き手を煩わせるようなことがあってはいかんでしょ! って思っちゃうんですよね。

 


ペリカンツイストのほうは一回洗浄して、2、3ヶ月使っていたら、ちゃんとぬらぬらと途切れることなくインクが出るようになりました。


しかし、IWIのSafariは使い始めて一週間くらいなのですが、全然良くなる気配がありません。


ううむ。シーサーさんの動画ではちゃんとインクが出てるように見えたんだけど……純正のインクじゃないから? インクの粘度の違い?


おそらく、洗浄したり数ヶ月くらい使い続けたりすればちゃんとインクが出るようになるとは思うんだけど、なかなか……。

 


この子、ボディカラーもデザインも超絶イケメンなんですよね。
「気高き孔雀」という名に恥じぬよう、ダークめの水色インクにして、「生きるか死ぬかの自然界で、美しかった羽根は泥にまみれ、所々ちぎれてしまったけれど、その目は生き物としての誇りを失っていない」というコンセプトまで決めたのに…!


ちょ、頼むからちゃんとインク出して! 普段使いにさせて!! って感じ。
(憑依型の天才アイドルと、その子のご機嫌取りをする中年プロデューサーの構図だ…)

 


そんなこともあり、「やはり国産万年筆が最強か…」という境地に至りつつあります。
こうして、国産万年筆信者は増えていくんですね。

 


おわりに


基本的に面倒くさがりなので、1ボディ、1カラーで使っています。
洗浄して色を変えて…というのが面倒なので、インクだけ集めるということはやっていません。


赤、青、黒、オレンジは持っているので、次買うなら緑か青紫かな。
薄ピンクもいいかもしれない。
最近気になっているのは、セーラーのプロフィットギア スリムミニです。
次買うなら金ペンがいいな!

 


「ボディに合わせてインクを選ぶ」という楽しみができるのは、万年筆ならではですよね。
学校や職場では文字=黒がデフォルトですが、万年筆のインクはその呪縛を解き放ってくれます。

個人的には「全くの初心者です」という方には、カクノをおすすめします。

 


万年筆が教えてくれるのは、書く楽しさ。
そして、色のある世界です。


f:id:ZenCarpeDiem:20200727204734j:image

万年筆について その1 出会いへん


f:id:ZenCarpeDiem:20200724223739j:image

最近はラジオ代わりにYouTubeで筆記具関連のチャンネルを流してます。
よく見ているのは、


・かほブログ。さん
・しーさーSeasar さん
・元筆記具専門店スタッフえもちゃんねるさん
・il Duomo(イル・ドゥオモ)さん
・文具王(高畑正幸)さん


です。


かほブログ。さんのチャンネルは近所の文具好きのおねーさんの近況をのんびり聞くイメージで。
しーさーさんのチャンネルは、木軸シャーペンや高級筆記具関連をピンポイントで見たいときに。
えもちゃんねるさんの動画は往年のニコ動の雰囲気があり、重度のニコ厨だった私にとって懐かしい感じ。
元業界人ということもあり、OEMの話などとっても興味深いです。
il Duomoさんは文具店のオーナーということもあり、万年筆についての説明動画がとてもわかりやすいです。
文具王さんはさすが文具王……! といった感じですね。
文具はもちろん、デザイン関連の話しなど、膨大な知識を惜しみなく披露してくれます。

 

 


いろんな方の文具話を聞いていると、自分のことも書きたくなるのが人間です。
今回は万年筆に絞って書いていこうと思います。

 


私と万年筆 出会いへん


1本目:LAMY サファリ


就職して半年ほど経った頃、「万年筆ほしい!」という欲求にかられ、楽天でポチりました。
しかし、残念なことにこのとき買ったサファリ、不良品だったのです。
本体に付いてきたカートリッジインクを使ってみたのですが、ぜんっぜんインクが出ませんでした。
結構わくわくしながら手に取った一本だったので、予想外の出来事に出鼻をくじかれ、当初の欲求はしゅるしゅるとしぼんでしまいました。

 


二本目:雑誌DIMEの付録の万年筆


(nanoユニバースじゃなくて、2013年のほう)


もともと父がDIMEを買っていたので、雑誌の存在はもともと存じていました。
たまたま本屋を通りかかったら、なんと雑誌の付録で万年筆がついてくる! ということで思わずお買い上げ。


一本目が思わぬ結果に終わったため、これが私の初・万年筆になります。
この付録の万年筆ですが、結構使いやすかったです。
インクフローがよく、筆記した後のインクが一瞬ぬらっと光るのもいい!


付属していた二本目のインクカートリッジも使い倒し、結構気に入ったのでこのまま普段使いにしちゃおうと思ったのですが、換えのインクがどれなのか分からず、詰んでしまいました。
当時の私の検索技術では、どのメーカーのインクと互換性があるのか、全く見つけられませんでした。

 


3本目:KAKUNO(パイロット M)


f:id:ZenCarpeDiem:20200724223733j:image

2本目の万年筆も、これから仲良くしようぜ! ってところでまたしてもお別れになってしまいました。
そんな中、文具コーナーを賑わせているあの子と出会います。


今ではすっかりおなじみになった、1000円で買える万年筆・KAKUNO(カクノ)です。
試筆もいい感じだし、値段も安いしってことでお買い上げ。


カクノはデフォルトで黒とブルーブラックのカートリッジインクがついてきます。
DIMEの万年筆は黒だったので、ブルーブラックのほうを使うことにしました。

 


日記を書いたりプチ論文を書いたり、主に自宅で使用しました。
インクフローもよく、本体も軽いのでさらさらといつまでも使っていられます。


しばらく放置してインクが出なくなったときもありましたが、一晩水につけたらなおりました。
今も現役でよく使う1本です。

 


4本目:キャップレスデシモ(パイロット)


f:id:ZenCarpeDiem:20200724223739j:image

家での筆記具としてカクノが定着したため、次は職場で使える万年筆を探すことにしました。
ちょうど教職に転職した年だったので、これからの意思表明もかねて、いいやつを買うことにしました。


職場でさっと取り出して、さらさらっと使えて、なおかつカッコいいやつ!
予算は2万円くらい。
回転式のキャップは回すのが面倒くさいので、それ以外がいいなー。

 


さっそくサーチを開始しました。
調べ始めると、万年筆というカテゴリーに収納されている情報の多さに圧倒されました。
10万越えの万年筆もざらにあり、買いはしないけれど見ているだけでもお腹いっぱいになります。


このままだとジャムの法則で万年筆を買うこと自体をやめてしまう…!ってなったため、初心に帰って自分の欲求を見つめ直すことにしました。


先ほど、回転式のキャップは好きじゃない、と書いたのですが、実はキャップ自体好きじゃないんですよね。
持っているボールペンは全てノック式だし。
しまうときにキャップ式だと両手使わないといけないし。
筆記中に紙を動かすと、放置したキャップに当たって転がっていっていらっとするし。
そんな私のわがままを叶えてくれる万年筆が、なんと一つだけあったのです。
(まだ、キュリダスの出てない時代です)

 


パイロットが出しているノック式万年筆、キャップレスです。
しかも、2015年の限定モデル「絣(かすり) ホワイト」がめちゃくちゃかわいかったのです!
絣模様が真っ白なボディをやや緩和していて暖かみがあります。
しかもこの絣模様、ちょっとだけ浮き出ていて、滑り止め効果もあるんです。
実利を兼ねた美しさに一目惚れしました。


しかし、この子は2万円…!
一目惚れでぽいっと出せる金額ではない。


まずはデメリットも含めて情報を集めることにしました。
といっても、デメリットはほぼありませんでした。


唯一あったのが、筆記中にクリップが指に当たることでした。
ノック式万年筆は、胸ポケットで保管したときにペン先が上向きになるよう、クリップがボールペンとは逆向きについています。
そのため、持ち手の部分にクリップがにょきっと出ているデザインになっています。
筆記中にクリップが指に当たるのが気になる、という意見もあれば、「万年筆の正しい持ち方をアシストしてくれる」という意見もありました。


こればっかりは触らないと分からないなーってことで、ちゃんと文具専門店に赴いて試すことにしました。
試した結果、個人的にはこの出っ張りがあるからいい! という意見に落ち着きました。
インクもいくつか試し、色彩雫の竹炭に決定。

 


5年ほど使ってみて、改めてこの万年筆についてまとめてみました。


1 ノック式はいい!
2 やや重い
3 クリップがあるので疲れにくい

 


1 ノック式はいい! どこでもすぐに使える!


ボールペンのノリで使える、これが何よりすばらしい!
片手で取って片手でノックして、片手でしまうことができます。
左手がふさがっててもオッケーなので、左手で本を開きつつ、右手でデシモを取り出してメモする、というのもできちゃいます。


2 やや重い  

本体は30グラムだけれど、キャップがない分重さが全て手にかかる


30グラムという重さは決して重たい方ではないです。
しかし、ほとんどの万年筆はキャップと本体を合わせた「総重量」が30グラム程度なので、キャップを持たないデシモは相対的に重く感じてしまうのです。
特に、私は万年筆のキャップをお尻にささない派なので、キャップ分の数グラムの重さでさえ重量感を感じます。


まあ、1時間くらいの筆記なら気にならない重さなので、職場で気合いを入れるときに使っています。

 


3 クリップがあるので疲れにくい 

クリップがあるから、親指と人差し指がおしくらまんじゅうしなくて済む


カクノなどの持ち方をアシストしてくれるグリップを握るとよく分かるのですが、筆記具を正しく持つと、親指と人差し指のあいだに2、3ミリ程度の隙間ができます。
この隙間がないと、親指と人差し指がぴたりとくっつしてしまい、余計な力が入ってしまいます。
おしくらまんじゅう状態になるのです。


デシモはボディがスリムだし、本体が金属なので手汗で滑りやすい。
やや重めなところも、指先のスリップを加速させます。
そこで、このクリップが真価を発揮するのです!


中心部にあるクリップが、ちょうど親指と人差し指の指置き場になってくれるのです。
また、丸形ボディの万年筆の場合、慣れていないと指のポジションをどこにすればいいのか迷ってしまいますが、そんなときもこのクリップが目印となってくれるのです。

 


キャップレスデシモのいいところばかり書いているので、欠点を一つだけ。
デシモには、ペン先を乾燥から守るため、シャッター機構というものがついています。
3年くらい使ったころ、私のデシモのシャッター機構が壊れてしまいました。
(シャッターが閉じなくなってしまった)

 


しかし、誤解しないでいただきたいのですが、これは決して「デシモが軟弱」なわけではありません。
購入した文具屋さんで診てもらったら、「こんな壊れ方は初めてみた…」と言われました。
おそらく、私がデシモを手帳の横にぶっさしたほぼ生身の状態で持ち歩いていたことが原因だと思われます。


カバンの中で財布やら弁当箱やら文庫本やらにばっこんばっこん当たってしまい、シャッター機構がいかれてしまったのでしょう。
なにが言いたいかというと、「いくら手がるに使えても万年筆は万年筆!」ということです。万年筆は精密器具なので、丁寧に扱ってあげてください。
(欠点ではなく、ただの注意事項ですね)

 


ちなみに、シャッターが閉じなくなってしまったデシモですが、文具屋さんと相談した結果、「ちゃんとペン先は出し入れできるし、本体は問題なく使える」ということで、そのままガンガン使っています。
若干インクが乾きやすくなった気がするけど、ほぼ毎日使っているから無問題!

 


……キャップレスデシモについて熱く語っていたら、またもや欲しくなってきました。
木軸のキャップレスは26グラムと普通のデシモより軽いので、普段使いにいいかもしれない!

 


次回、インク沼に片足をつっこむ! です

台湾茶とわたし

 

ある看護師が、ひとりの、いくらか緊張病がかった破瓜型分裂病患者の世話をしていた。彼らが顔を合わせてしばらくしてから、看護婦は患者に一杯のお茶を与えた。この慢性の精神病患者は、お茶を飲みながら、こういった。〈だれかがわたしに一杯のお茶をくださったなんて、これが生まれてはじめてです〉。


R・D・レイン『自己と他者』志貴春彦・笠原嘉訳
 鷲田清一『「聴く」ことの力 臨床哲学試論』より孫引用ー

 


台湾茶好きの方は(いい意味で)クレイジーな人が多い。
コーヒーや紅茶の界隈でも、ここまでの熱意をもち、その炎を絶やすことなく燃やし続けている人たちはいないのではないか? と思う。
なぜ、台湾茶は人を狂わせるのか?
人々を発狂させる台湾茶の魅力を、僭越ながら述べたいと思います。

 


※このページに出てくる「台湾茶」とは、主に「台湾の山地で収穫された茶葉で作られた半発酵茶(ウーロン茶)」を指します。
阿里山とか梨山とか金せん茶とか、産地も種類もざっくりと含みます。

 


テーマ:なぜ、台湾茶は人を(いい意味で)狂わせるのか?


Q1 台湾茶はうまいのか?
Q2 台湾茶が好きなのか? 台湾が好きなのか?
Q3 台湾茶の魅力とは?


以上、三つのクエスチョンを中心に、台湾茶の魅力を語っていきます。

 

 


Q1 台湾茶はうまいのか?


A うまい。だが、私の第一印象は「なんだこれ?」でした。


ほのかに甘みはあるが、糖類の甘さではない。
飲んだ後にさっと吹き抜ける爽やかな香り。
舌に残るかすかな渋みは心地よく、温かさが身体全体にしみていく。
心と身体を潤す滋味。
当時、その体験を形容する言葉を私は持ちませんでした。


人類がはじめてモネやピカソの絵を見て「なんじゃこりゃ!」と思ったのと同じく、初めてのものや、自分のバックグラウンドからかけ離れたものは脳みそがなかなか受け入れられないのです。
つまり、台湾茶のおいしさを理解するには慣れが必要でした。

 


はじめて台湾茶を飲んだとき、
「たぶん美味しいんだろうけど、これはお茶なのか?
 烏龍茶なのに緑色だし、 
 私が知っているどのお茶とも違う……!」
という感じで、非常に困惑しました。
当時、私が普段飲むお茶と言えばペットボトル(150円)のものくらい。
なので、目の前の茶葉が300グラムで1000元(当時のレートで約3500円)もするのもびっくりでした。


え? これ買うの? お茶っ葉に3000円以上出すの?? 正気???


あの時、ええいままよ! と勇気を出し、私も茶道楽の門を叩いたのでした。

 


Q2 台湾茶が好きなのか? 台湾が好きなのか?


鶏が先か卵が先か。
A 私は「両方好き」です。


台湾そのものの魅力は多くの人が語るところですが、私の好きポイントは3つ。


1 フルーツ食べ放題!
2 屋台メシがうまい!
3 人と人との距離がちょうどいい


1 フルーツ食べ放題!


温暖な気候に恵まれ、夜市はもちろん、街中のいたる所でカットフルーツが売られています。お値段も手頃なので、私は下手したら一日中食べているくらいです。
日本でも毎日食べたいのだけれど、お財布と相談しつつせいぜい週2回くらいしか食べられないので、台湾に行ったらここぞとばかりに食べます。


ケーキが職人の技術の結晶なら、フルーツは自然の栄養の凝結体といったところでしょうか。スイーツと違って、いっぱい食べても大丈夫!
美味いし健康にもいい!


2 屋台メシがうまい!


日本円で数十円から数百円くらいの値段なのに、屋台のご飯がめちゃくちゃおいしいのです!
これも日本との比較になっちゃうけれど、日本でおいしいものを食べようとすると、1000円以上、下手したら2000円は超えるんですよね。
それ以下の値段だと大手のチェーンしかない。
「安くて美味い」だけでなく、「安くて美味いものがいろいろある」という多様性がミソです。

 


ちなみに、士林夜市は観光客目当てのお店が多く、私は屋台メシにあまり良い印象がないです。
地元の人がよく行く所や、台中など、ローカルな場所に行くほどに物価も下がるし、美味しさも増す気がします。


なお、屋台メシ以外もモチのロンでおいしいです。
薬膳の考えが浸透しているのも個人的に好きですね。
特に火鍋(酸っぱい白菜のスープのやつ)が好き!

 


3 人と人との距離がちょうど良い


つかず離れず、でも困ったら助けてくれる。
それは店員と客の関係であっても、見ず知らずの他人相手でも同様です。

 


過剰サービス大国日本で生まれ育った私ですが、自分もサービス業の立場を経験し、
「お客様は神様、ではない」
という結論に行き着きました。


店員と客は対等であり、お互いに人としての敬意をもって接すればいい。
やったら舐め腐った態度や失礼な態度で接してくる客にはお帰りいただくべきだし、
店員も、客の度を超えた要求や自分の知識不足を棚に上げての察してチャン客には毅然とした態度で「不可」を伝えるべきだ。


お互いがお互いをリスペクトし、自分の要望を丁寧な態度で伝えること。
ビジネスの世界では当たり前だけれど、なぜか一般客相手だと途端に難しくなる。


私は日本の不必要なまでにへりくだった慇懃無礼な接客より、台湾のフランクな接客のほうが好きです。
それに、台湾の接客はフランクですが、言葉が通じないからといって適当にあしらわれたり、無下に扱われたりすることはほぼ無いです。

 


また、これは海外全般に言えることかもしれませんが、困ってる人に対して自分たちができる限りのことをして助けてくれます。

 

 

 


Q3 台湾茶の魅力とは?


A 一杯の茶に服す、安らかな時間。


今年の2月にめでたく訪台13回目を迎えたわたくし。
そんな私が台湾旅行で最も楽しみにしているのが、お茶屋さんでの試飲です。


「試飲」という言葉では、お茶の入った小さな紙コップを配られる……というイメージがわくと思うのですが、台湾茶の試飲は違います。
きちんと椅子に座って、店員さんとテーブルごしに向かい合うのです。
飲みたいお茶のリクエストを聞いてくれることもあるし、ちょうどそのとき店員さんが飲んでいたものを「まずは一杯」と注いでくれることもあります。


そう、台湾茶の試飲とは「店員さんからのおもてなし」なのです。
しかし、茶道のもてなしとは違い、茶を挟んで向かいあうその瞬間はホストも客も、上も下もありません。
一杯の茶の前では、人は平等なのです。


あの15分から1時間の、穏やかな時間のために私は台湾を訪れるのかもしれません。


f:id:ZenCarpeDiem:20200722202618j:image


他の茶の世界と比べると、その違いがよく分かると思います。
以下、私のイメージです。

 


・抹茶=ラスボスVS歴戦の勇者


f:id:ZenCarpeDiem:20200722202553j:image

ホスト側の込めに込めたおもてなしのディティールに対し、客は全力で迎え撃たねばなりません。
掛け軸、床の間の花、ほのかに香る練り香、目にも楽しい季節の御菓子。
それに応えるための服装、所作。
また、複数の客を引率する正客の立場の人は、周囲の人も楽しめるよう、会話の技術も必要です。
(茶会では、亭主(ホスト)と正客(しょうきゃく・一番上座に座る主賓)の二人以外はおしゃべりをしてはいけない、という決まりがあります)


つまり、ホスト側と客側の力量が同程度でなければ、おもてなしとして成立しないのです。

 


・紅茶=孤高の剣士


極める、という言葉が最も似合うのは紅茶の世界ではないでしょうか。
最も温度に気をつけ、時間に気をつけ、茶葉の味をしっかりと引き出す。
真剣に茶葉と向かい合う姿は、ストイックな求道者さながら。


f:id:ZenCarpeDiem:20200722202532j:image


自分の紅茶生活を振り返ると、自問自答せずにはいられません。
私は茶葉本来の味を楽しんでいるのか?
ミルクと砂糖で中和して、舌になじむ味に調合して、よくある「紅茶っぽい味」をただ消費しているだけではないのか?

 


本当においしい紅茶、茶葉本来の味が引き出された紅茶とはどんな味がするのか?
まだ「本物」に出会ったことがない私は、目指すべき背中というものが分からない。
ですが、その背中に出会ってしまった剣士が、それを目指さずにはいられないように、本物の茶葉の味を知ってしまった人もまた、極めずにはいられないのでしょう。


様々な産地やメーカーの茶葉を試し、それぞれが持つ茶葉の魅力を引き出し、至高の一杯を探し求める。
その姿は、武者修行に励みながら憧れの背中に追いつけ追い越せと日々努力する剣士のようです。

 


・コーヒー=様々な可能性を模索する研究者


f:id:ZenCarpeDiem:20200722202637j:image

ハンドドリップ、サイフォン抽出、ラテアート。
ブレンドスペシャリティコーヒー、なんとかかんとかモカフラペチーノ。
コーヒーを煎れる技術、飲み方、アレンジ。
コーヒーという一種の豆から導き出される可能性は無限大です。


多くの人にとって、コーヒーは生活必需品です。
そのため、インスタントやペーパードリップ、コーヒーメーカーなど「生活の中で手軽に飲む」という手法が広く浸透しています。


しかし、手軽な日用品だからこそ、その深淵をのぞいてしまった人はさあ大変。
豆の粗挽き、細引き、水出し、湯温、抽出時間、ハリオV60、デロンギ……。
コーヒーのもつ無限の魅力にみせられ、その奥深さにはまってしまうのでしょう。


コーヒーという一つのものに対し、様々な角度からアプローチし、まだ見ぬ可能性を引き出していく。
研究に没頭する研究者さながら、その探究心には頭が下がります。

 

 


私にとっての台湾茶


茶のルーツである中国では、普段は白湯を飲み、茶を飲むのは家族や友人との団らんの時だけだったそうです。
つまり、茶は特別な飲み物。
ハレとケでいうとハレの存在、日常から離れたごちそうの一つです。


こんな「台湾茶めちゃくちゃ飲んでます!」みたいな文章を書いていますが、私も毎日は飲みません。
週に一回か二回、気が向いた時だけです。


台湾茶は急須に茶葉とお茶を入れるだけなので、面倒なことはほぼありません。
急須も洗わなくてOKなので、ずぼらな私にはぴったりです。


しかし、白湯と比べるとやはり手間はあります。
電気ポットの湯をそのまま飲む白湯と違い、茶葉を用意したり、後で捨てたりする手間はあります。

 


丁寧に台湾茶をいれて飲むと、とても落ち着きます。
台湾茶に触れたときに知った、あの何もない、一杯のお茶を飲むだけの時間。
そんな安らかな過ごし方があることを、私は台湾茶を飲んだときに知った。

 


今の世の中において、ほっとできる時間ほど失われてしまったものはないのではないか。
ただ目の前のものをじっと見つめ、味わい、静寂に耳を浸す時間。
ほっと、心が落ち着く瞬間。
文明や技術の発展と引き替えに、私たちが失ったもの。
台湾茶は、そんな日々の生活ですり減り、汚れ(気の枯れ・ケガレ)た心を潤してくれるのです。

 


台湾茶を通して、店員さんとのもてなしのひとときを通して、一杯の茶に服すという安らかな時間があることを知った。
そして、台湾茶を通せば、私たちはその時間をいつだって味わえるということ。
そのことを、より多くの人に伝えたいと思います。

 


台湾茶に狂う人は、安らかな時間を心の底から求めていたのかもしれません。
渇きが切実だからこそ必死になって求めるように、私たちは必死になって多くの人に伝えようとするのかもしれない。
その結果、勢いあまってクレイジーに見えてしまうのかもしれない。

 


台湾茶は、私たちの心の渇きを潤してくれるのだ。


参考文献

f:id:ZenCarpeDiem:20200722203105j:image

『お茶のすすめ お気楽「茶道ガイド」』川口澄子 WAVE出版


f:id:ZenCarpeDiem:20200722203113j:image

『紅茶の教科書』礒淵猛 新星出版社


f:id:ZenCarpeDiem:20200722203123j:image

『コーヒーとボク 漫画家に挫折したボクが22歳で起業してコーヒー屋になるまで』相原民人 双葉社

2020年6月度食費・本費決算

 

・食費部門
  スーパー     14,186円
  内食(コンビニ)  4,165円
  外食          4,286円
 トータル      22,637円

 


コンビニは先月より増えたものの、スーパーにあまり行かなかった(9回のみ)ので、ちょこちょこ買いがなく、全体的な出費を抑えられた。
5月は16回もスーパーに行っていたので、今月は「冷蔵庫を空にしてから買い物に行く」というゴールデンルールをしっかりと守れた。

 


・書籍部門
   電書   22,960円
   紙本   11,317円
  トータル  35,277円


先月より軽ーく一万円超えてしまった。
理由は一つ、マンガを買いまくったから。


中・高校時代からファンだった春田ななさんのマンガをいくつか大人買いしたことと、シャーマンキングの新しいやつをいくつか購入したことが原因です。


購入品はこちら。


春田なな先生作品
『6月のラブレター』
『スターダスト★ウィンク』
チョコレートコスモス
『つばさとホタル』


大人になってから読むと、月刊誌の作品って本当に編集されてるな……!ってことにびっくりします。
無駄がなく、読みやすく、テンポがいい。
ほら、週刊の少年誌って取りあえずバトってラストの引きは「なん…だと…!?」でどんでん返しとけばいい、みたいな風潮がありませんか?


春田ななさんの作品は男の子の心情がすごいリアルな感じでいいですよね。
あと、女の子の何気ないカットがすごくかわいい。
制服をだぼって感じで着てて、身体のラインが見えないやや寸胴なシルエットが萌えるというか。
(何この女子高生評論…。あぶないやつやん)

 


武井宏之先生作品
シャーマンキング レッドクリムゾン』
シャーマンキング フラワーズ』
シャーマンキング スーパースター』


電書屋で無料開放しているシリーズ試し読みパックで、昔の推しがドイケメンになっていたのがきっかけで購入しました。
しかも嫁?? 息子?? え、死ん???? ちょ、どういうことなん!?? って気づいたらポチってました。


相変わらずメカがかっこいい!
シャーマンキングは話が難しいというか、当時の読者層(小・中学生)がモノローグ的なシーンの多さに退屈したというか、読者にとって「分かりやすい作品」ではなかった、というところから打ち切りになってしまいました。


この「分かりやすさ」という点で新作を見てみると、だいぶ気をつけて作品を作っているのかな、というのが感じられます。
一番最初に『レッドクリムゾン』を読んで思ったのですが、セリフやモノローグから「今彼らが何を大切にして、なんのために闘っているのか」が常に分かるようになっています。


打ち切りで内容が止まっている身としては、蓮の思考回路が明示されており、ストレスなく読むことができました。
いっぽう、潤姉さんの気持ちもかゆいところに手が届くくらい丁寧に説明されているのですが、ちょっと語りすぎな感じもしました。


言葉にしなくても潤姉さんが白竜を大事にしているのは伝わるんじゃないかな、と思ったり。

 


「大切だ」と言語化されてしまうと、「大切」である、という論理的な理解で止まってしまい、共感から遠ざかってしまう。
しかし、セリフの応酬や表情だけでは「どのくらい大切に思っているか」の感じ方は個人まかせになってしまうので、人によっては「何が言いたいのかよく分からない」という理解で止まってしまう。
理解だけでは心を揺さぶる共感にはならないし、共感を目指してもそこまで読者が辿りついてくれないこともある。
ジレンマですね。

 


マンキンは10年前?くらい? にプリンセスハオのところで止まっているので、そのうち完全版もほしいなあと思い中。 

 


今月の反省

・スタバをジューススタンド代わりにしない
  →あくまで特別なおやつ。のど渇いたらコンビニで!
・スイカの見切り品が微妙な味だった…
  →ほんとに食べたいなら500円くらい迷わず出そう
・バナナチップス、大容量サイズかったら食べきれなかった…
  →100円の小袋をその都度買おう!
・しいたけを一日常温放置したら、カビっぽいの生えた…恐くて捨てた
  →すぐに! 冷蔵庫へ!
・にんじんストックしすぎてカビ生えた…
  →ちゃんと使い切ってから買う!


特にしいたけとにんじんはショックだった…。
しいたけのはただの胞子かもしれないけど、食べる勇気はなかった。
食べ物を腐らせると精神ダメージが大きいので、気をつけたい。