今日を摘む

ハガキでは間に合わないときの手紙ばこ。

万年筆悲喜こもごも

 

去年の秋に憧れのスーべーレーン様を購入し、万年筆沼度がますますアップしたわたくし。
良いこともアレなこともあったので、三つほど記しておこうと思います。
お題はこちら。

1 憧れのスーべーレーン様
2 IWIさん、きみ、不良品ではないのかね?
3 これが紙沼ってやつか…!

 

1 憧れのスーべーレーン様


f:id:ZenCarpeDiem:20210115182540j:image

お店で試し書きをさせてもらったとき、私の右手に衝撃が走りました。

「なにこのとろける触感……! メルティーキッスか!?」

ヌルサラ感を至上とする私にとって、スーべーレーン様の書き味は衝撃でした。
万年筆欲しいけど、今は財政がピンチだから適当に国産の金ペンでにごしておくか…っていう気持ちでお店に行ったのに、気づいたら購入を堅く決意していました。

最初の一本はやはり王道の緑ボディ。軸はM600です。
M800とも迷ったのですが、私の手には微妙に重たかったので、M600にしました。
インクもペリカンで合わせて、ダークグリーンをチョイス。

スーべーレーンはボディもカッコいいですよね!
しましまのラインがモーニングのズボンみたいで、シックなおじさま感があります。
緑ボディは光にかざすと中のインクが透けてキラキラします。

緑のスーべーレーンをライトにかざすと、『耳をすませば』で雫がエメラルドの原石をおじいさんに見せてもらうシーンの再現が出来ます。
ライトでキラキラするやつ。
(いらん情報でしたね)


……とまあ、外観は完璧なのですが…。
私、このスーべーレーン、M字幅で買ったんです。
F字も試したんですが、ヌルサラ感がより感じられるほうがいいなってことで、M字を選んだんです。
字の太さは気にしないから~って。
……思ったん、ですが…。

まさかここに大きな落とし穴があるとは…。


海外字幅のM字は太いだけではなかった

日本のより海外の万年筆の方が、同じM字表記でも字幅が太い。
これは多くのサイトさんでも言われていますね。
しかし、海外万年筆のM字は、字幅が太いだけではなかったんです。

字幅(イリジウム)がデカいってことは、いらんところもデカい。
つまり、イリジウムについているスリット(ペンの割れ目)を紙面に当てづらいのです。
単刀直入に言うと書きづらい。書けない。

イリジウムがデカいので、常にベストな角度で使っていないと、すぐにスリットと紙との接地面がずれてしまい、ただ金属の球体を紙に押し当てているだけになるんです。
要は空振りです。

まあ常にベストな角度で万年筆を使えてればいいのですが…スーべーレーン様には三角ポジション(持ち方サポート)がついていないので、すぐに持つ場所がずれちゃうんですよね。

幸い、販売店さんと相談してイリジウムを調節していただいたので、どんなスピードで使っても空振りすることなくインクが出るようになりました。
削った分、若干ヌルサラ感は減りましたが、致し方ありません。
私にとって万年筆は、書き味<実用性なので。


私が言いたいのはここからです。

……なぜ、私はこの情報を前もって見つけられなかったか、です。
「海外万年筆のM字買ったら書きにくくて後悔した」という情報になぜ私は辿りつくことができなかったのか。

四万以上の買い物で後悔した…っていうことを口外したくない気持ちは分かります。
いやでも後人のために、あの、情報をだね、残しておいてほしかったというか。
ネットの海にあふれる万年筆サイトは大体ステマってこのことか…っていう。

いやー…、結構事前に検索したつもりだったんだけどなあ。
ちなみに、「太い字幅はイリジウムがデカすぎて筆記時に邪魔になる」というのはえもちゃんねるさんの動画で知りました。
ちょうど、スーべーレーン様を買った少し後にこれについての動画が出たんだよね…。
あと、一週間早かったら…!

(裏を正せば、マイナス情報をしっかり開示してくれるえもさんのチャンネルは信用できます)

まあ、スーべーレーン様は欲しいカラーが他にもあるので、また買うと思います。
今度はF字で!!


2 IWIさん、きみ、不良品ではないのかね?

のど元まで出かかったこのフレーズ。
こちらは過去記事でも紹介したことのある「IWI Safari」シリーズの孔雀です。

IWIは台湾のメーカーです。
このSafariシリーズは「野生動物」をテーマとして、様々な動物ごとにデザインされた万年筆です。
一言で言うとはちゃめちゃにカッコいい万年筆です。

買った当初からインクが出づらかったのですが、使っていくうちに研磨されていくだろう、と思いながら一ヶ月くらい使い続けてみて、やっぱり好転しなかったのでお店で診てもらうことにしました。

お店で診断されたことが、

・めちゃくちゃペン先の閉じがキツい
  (これ、本来の字幅であるEFよりほっそいんじゃない?)
・ペン先のスリットの切れ目が3対7、いや2対8の割合で差がある
  (あなたは若干内巻きの持ち方だから一応使えてるけれど、逆だったら…)
・何このコンバーター!? インクが出ないんだけど
  (私もそれ思ったー!)

とまあまあまあまあ。
いやこれ不良品じゃね? って思いました。
ギリギリ口には出さなかったけれど。

特にペン先のスリット割合が2対8ってところ。
普通、5対5ですもん。
いくら万年筆が通常の工業製品より個体差が激しくなりやすいとはいえ、それ売っちゃだめなレベルなんじゃない!? という。

まあ、この万年筆もお店で調整してもらい、普通に使えるようにはなりました。
ちなみに、かかった費用はこちら。

Safari本体  4,400円
・万年筆調整代 5,500円
・カヴェコミニコンバーター代 770円

           計 10,670円

え、本体代の倍かかってるじゃんって?
しょうがない、イケメンに金がかかるのは世界の真理なんやって…。

ほんと、デザインはすばらしいんだってデザインは……!

同じ台湾のメーカーであるツイスビーは書き味で困ったっていう話は聞かないのに。
むしろツイエコサイコー! っていう意見をよく見る。
私も欲しい、ツイエコ。


3 これが紙沼ってやつか…!

普段はキャンパスノートのA罫を使っているのですが、棚の奥からツバメノートが発掘されまして。
ツバメノートってなんか万年筆にいいらしい(?)し、使ってみるか、と試すことに。

しかし、私にとっては思わぬ結果となりました。
ツバメノートは「フールス紙」というものを使用しているそうなのですが、この紙だと万年筆のインクがにじまないんですね。
しかし、ほんっっっっの少しなんですが、万年筆で書くと抵抗があるんですよね。
イメージで言うと、

キャンパスノート → サラサラ
ツバメノート   → カリカ

って感じです。
私は万年筆愛好家には二種類のタイプがいると考えていまして、

1 美文字丁寧タイプ
2 俺のスピードについてこいタイプ

私は2のタイプです。
とりあえずしゃしゃしゃっと書く。
字なんて自分が読めりゃあいいんだよ! っていう感じ。
私の思考スピードについてきてもらうため、万年筆はのペン先はゲーセンホッケーのディスク並みに滑って欲しいタイプです。
(あの筐体、最近見なくなりましたね…)

ツバメノートはカリカリ系かあ、私には合わないなあ。
残りページどうしようかな、と思案しながら適当に右手を動かしていたところ、あることに気づきました。

ツバメノート、絵を描くのに向いているのでは!?

適度な抵抗、にじまない紙質、消しゴムに負けない強度…!
シャーペンでも万年筆でも、いい感じに線が乗ってくれる気がします。

ははあ、なるほど。
これが紙沼というやつか…!
しかも用途に合わせて道具を選ぶってカッコよくない?
プロっぽくない?


f:id:ZenCarpeDiem:20210115182510j:image

こちらは万年筆+水筆でぼかしたシャオヘイ。
(ツイにも上げたやつ)
わりとかわいく描けたのでお気に入り。

使用画材はIWI Safari鶴舞ブルー)です。
さすがツバメノート。
多少の水にはへこたれません。
ちょっとボコってなるけど、普通のノートに比べたら全然大丈夫!

ロシャオヘイセンキは14回目を突破!

まだまだ見に行くよ!

 

最後に

ところで『趣味の文具箱2021年1月号』はごらんになりましたか?
なんと、パーカー51の復刻品が出るんです!!

フーデッドニブちょうカッコいい!!
ティールブルーすっごいきれい!!

パーカーのボールペンは持ってるけど、万年筆は持ってないんですよね。
私もこれを機に矢羽根デビューしようかな…!

 

みんなのツバメノート (TJMOOK)

みんなのツバメノート (TJMOOK)

  • 発売日: 2021/01/15
  • メディア: 大型本
 

おまけ。

今日発売なんだって!

『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅』を読んで。

「生物というのは、いろんなものを食べて排せつしている。
 それが生命であり、生きているっていうことです。
 では皆さん、われわれ郷土の、この琵琶湖を思い浮かべてください。
 琵琶湖にはたくさんの川が流れ込んでいます。
 そして、南からは川が流れ出て、大阪湾に注いでいます。
 このように、琵琶湖にもいろんなものが入ってきて、いろんなものが出ていく、というふうに見えます。
 では、問題です。琵琶湖は生命でしょうか?」

(『皮膚感覚と人間のこころ』傳田光洋、本書より孫引用)


福田伸一先生 の著書はいくつか読んでいて、動的平衡についての知識は持っていた。
哲学をかじった身としては、西田哲学というキーワードを見て飛びつかないわけにはいかなかった。


今回、池田善昭先生の西田哲学と福岡伸一先生の動的平衡を合わせて読むことで、より深まったのは「時間」についてだと思う。
個人的には西洋と東洋の比較から、西洋科学の「主観性がもつ限界」について考えられたのが良かった。


以下、「時間」「主観性が持つ限界」について、個人的にまとめます。

 


0.動的平衡(ダイナミックイクイリブリアム)とは?


動的平衡とは絶えず入れ替わる生命の身体の仕組みであり、絶えず中身を入れ替えながらも全体としての形を失わない、壊しては作り、壊しては作りという流れである。
全ての物質は時間の経過とともにエントロピー(乱雑さ)が増えていく。
ほっぽっておいたものにホコリがついたりサビがついたりするように、体内でも死んだ細胞などのいらないものや無駄なものがたまっていく。


そこで、生物の身体はあらかじめ”先回り”し、自分の身体を壊していく。
壊れる前に壊していく。
そして、自分の身体にエントロピーがたまっていく前に、先回りしてエントロピーを排出してしまうのだ。
ゴミが出る前にゴミになりそうなものを選別して分別し、早め早めに捨てておく。
同時に、新しいものを買い込んで、せっせと部屋に並べていく。
そのおかげで、生物は身体が腐ってしまうことなく、常に新鮮な状態で活動出来るのだ。

 


1.「時間」とは


「先回りによって時間が生まれる」


動的平衡では、体内にエントロピーが蓄積する前にエントロピー(に、なりそうなもの)を排出します。
筆者の福岡さんは、動的平衡の仕組みを「坂道を転がる円」にたとえて説明します。
生物は長い長い坂道を転がる一個の円である。
その円は坂道を転がるのとは反対方向に回っている、つまり、坂を上っていく方に回っているのです。


円は動的平衡の仕組みで、身体のある部分がぽろぽろと分解されていきます。
身体が欠けてしまった円はバランスを崩し、坂道の上の方に向かってガタンと傾きます。
同時に、円は身体を再生します。
欠けた部分は欠ける端から再生され、そしてまた、再生された部分もすぐに分解されていきます。
円は分解と再生を繰り返し、坂道を転げ落ちる方向とは逆回転に回り続け、なんとか坂道の途中で踏みとどまります。
危ういバランスを保ちつつ、なんとかその場に踏みとどまります。
しかし遠目で見ると、円がゆっくりと坂道の下へとずり落ちているのが分かります。
坂道の下まで落ちきったときが生命の死です。


福岡さんは、この動的平衡における”先回り”こそが時間を生み出しているのではないか、と言います。


ここから、私の想像と考察です。


通常、時間について考えるとき、私たちは一本の線をイメージします。
過去から未来へとつながるまっすぐな線。
その線にはメモリがついていて、年、月、日、時間、秒と細かく分類されています。
私たちはそのメモリを見せられながら、こんなふうに脅されます。


「いいかい? 時間だけは誰にとっても平等なんだ。
 一年は365日、一日は24時間。
 この誰もに与えられた平等な時間をどう生きるか、
 それだけが人間に与えられた自由なんだ。
 だからね、何にも考えずにだらだら過ごしてはだめなんだ。
 与えられた時間をどう使うか?
 その使い方で君たちの未来は決まるんだよ」と。


こういった、「過去から未来へとまっすぐに延びる時間」という概念は、西洋から来たものです。
時間という観念自体も様々にあり、「円環の時間」という概念もあります。


福岡さんの「”先回り”が時間を作る」という概念で改めて時間を捉え直すと、上記の脅しがまったくのでたらめに思えてくるのです。


仮に、生命が行う”先回り”を人間のエネルギーだと仮定します。
人間のエネルギーが大きければ大きいほど、”先回り”する距離も大きくなり、より多くの時間が作られる、と仮定すると、「時間は誰にとっても平等なもの」ではなくなります。


時間は誰もが同じように持っているものではない。
それぞれの生命が自身のエネルギーによって作り出すものである。
つまり、もともとある時間(一定の長さもの)を効率よく使うという、従来の時間の観念はまったくもって間違いだ、となるのです。


時間は使うものではなく、作り出すもの。
それぞれの生命が自身のエネルギーによって、作り出していくものだ。
とすると、よりたくさんの時間があるのは、エネルギーに満ちているほうであり、集中しているほうである。


極端なたとえになりますが、ローテンションのまま1時間、たんたんと仕事をこなしたAさんより、45分間ぼーっとして、15分だけぐわっと集中したBさんの方が、時間を長く感じる。
みたいな。

 


もちろん、ただぼーっとしているだけでも私たちの身体の中にはエントロピーがたまってしまうので、何もしなくても身体は“先回り”してエントロピーを排出してくれます。
つまり、何もしなくとも時間は流れていきます。
ですが、私たちは西洋的な時間の概念(時間は誰にも平等だ)に捕らわれすぎて、本質を見失っていたのではないか?
そんなふうに思えるのです。

 


アインシュタイン相対性理論や、子どもの時間は大人の時間より長いという現象も、動的平衡の“先回り”によって説明できるのでは、と思います。
(要は、“先回り”するエネルギーが強いほど時間が長い)


なお、相対性理論(動いているものは時間が早く進む)は、非生物にも同様に働くので、生命とはちょっと話がずれるかもしれません。ご容赦下さい。

 


2.「主観性が持つ限界」


これも西洋の考え方に対するアンチテーゼです。
因果関係を主軸とする西洋の考え方では、何かと何かが「同時」に起こる、というのは捉えることが出来なかった。
原因→結果、の順番で物事を推理するため、原因=結果という考え方は出来ないのです。


西田哲学が今まで理解されなかったのも、この「同時」ということが西洋的な視点(因果律)では捉えることができなかったからだ、と筆者は語ります。


たとえば、細胞の合成に注目すると、細胞の分解には気づかない。
細胞の分解に注目しているときは、細胞の合成には気づかない。
しかし、実際は合成も分解も同時に起きている。
「ピュシス(自然)は隠れることを好む」と、本書で何度も出てくるのですが、自然現象はある現象が別の現象を隠します。
(相互隠蔽性の原理)

 


話は少し変わりますが、飲茶さんの『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』という本では、西洋哲学と東洋哲学の違いをこんなふうに記しています。

 
「東洋哲学は『ゴール(真理)を目指す』のではなく、『ゴールした』ところからスタートするのである」


西洋哲学がソクラテスの「無知の知」を起点として、「ゴール(真理)とは何か?」をアレコレ考えていくのに対し、東洋哲学はすでにゴール(真理)に到達しているのです。


…ちょっと動的平衡の考え方に似ていませんか?
 答えの中に考えがあり、考えの中に答えがある、みたいな。

 


またまた話は変わるのですが、最近三浦綾子さんの『氷点』シリーズを読みました。
この小説のテーマは「原罪」で、罪とは? 許しとは? ということについて登場人物たちがアレコレ考えていきます。


その許しのモチーフの一つに、ヨハネによる福音書第8章が出てきます。
いわゆる

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」

です。


「私は悪くないわ! あの人の自業自得じゃない!」
そう思っていた少女が、この姦通女のエピソードに触れ、考えを改めていくのです。


小説は大変面白かったのですが、私には疑問が残りました。
この姦通女のエピソードが示すもの、そこには西洋の考え方にある「主観性の限界」があるように思えたからです。


まず、人間を完全に平等なものとして見ている。
そして、同じ人間同士なのだから、立場を入れ変えて見れば、誰もが同じように大なり小なり罪を犯している。
誰もが罪人である。
だから、彼女の罪を許そう。
彼女を裁くことが出来るのは、神だけだと。


一見論理的に筋は通っていますが、私はここにうさんくささを感じてしまうのです。
姦通女への見方を変えることで、自身の罪過に目を向けさせる。
つまり、主観の向きを変えさせることで、考え方を変えさせる。


でも、それって、屁理屈じゃない? みたいな。
なあんか目くらましをされているような、だまくらかされているような感じがしてしまうんですよね。

 


確かに人間は権利の上では平等です。
でも、「平等だ」という視点で見ることで見落とされてしまうものがあるんじゃないかなあと、私は思うわけです。


このことについては私自身も明確な答えを掴んでいないので、疑問の提示のみで終わらせておきます。
ただ、「初めに答えありき」の東洋哲学の考え方と、破壊と創造が同時に進行する動的平衡の考え方、そして西田哲学がヒントになるんじゃないかな、と思っています。

 


最後に


冒頭で引用した「生命と同じように、外部のものを取り入れ、排せつしている琵琶湖は生命といえるか?」問題。


この文を読んだ直後は「ん? 確かに、琵琶湖は生命と……いえなくもなくない???」となりましたが、この本を読み終えた今なら断言できます。


琵琶湖は、生命ではない。


なぜなら、琵琶湖には意思がないからだ。
本書で池田先生が木の年輪のたとえで説明して下さるのですが、木の年輪にはその当時の環境が細部にわたって刻まれています。
琵琶湖の湖底にも、多くの生物の死骸や泥、砂などが堆積しており、これらを調べれば当時の環境が分かるでしょう。


しかし、木の年輪と琵琶湖の湖底の堆積物には決定的な違いがあります。
それは意思です。
木の年輪は、木によって形作られている。
木の意思によって、年輪の形にまとめられている。
一方、琵琶湖の湖底の堆積物に意思はありません。
ただ一方的に積み重なっただけです。

 


本書で池田先生が、


「生命について考えていくと、時間に対する観念が変わるのです。
 そして、時間観念が変わると生き方そのものも変わる!」


と、おっしゃっています。


ちょっと難しいところもあるけれど、生き方が変わる、すごく楽しい本です!


【参考文献】

 

・『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅』
 (池田善昭、福岡伸一 小学館新書)

 

史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち (河出文庫)
 

・『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』
 (飲茶 河出文庫


西洋哲学バージョンもおすすめ!
『正義の教室』の著者さんです。

 

氷点(上) (角川文庫)

氷点(上) (角川文庫)

 

 

・『氷点』『続 氷点』
 (三浦綾子 角川文庫)


それぞれ上下巻が出ている全四冊のシリーズです。
めちゃくちゃ面白いので、気づいたら一冊読み終わってた…!

教員採用試験合格記 その二 面接に向き合う


3 面接に向き合う

死に場所(目標)を見つけ、私はついに決意した。
面接という最大のウィークポイントに切り込むことを。
なぜなら、二次試験落ちを三度も繰り返していたからです。

二次試験は集団面接と個人面接のみ。
私の足を引っ張っていたのは面接なのです。
面接に向き合わない限り私に未来はない。
頭ではわかっていたけれど、そこに足を踏み入れるのはなんとなく避けていました。


面接で望まれるものって何でしょうか。
自信に満ち溢れていて、キラキラしていて……とは言いますが、講師やっててそんな人っているんでしょうか。

 

先生と呼ばれる立場でありながら、バイトをしないと生きることすらままならない。
本採用の先生が夏休みやゴールデンウィークの予定を楽しそうに話される中、自分はバイトかぁとため息をつく。
体育祭に出ても文化祭に出ても給料は出ない。

経済レベルの差、待遇の差。
しかし、仕事内容は変わらない。
頑張っても頑張らなくても時給は変わらない。
未来の見通しは立たず、先生ではあって先生ではないという自己矛盾を抱え続ける。

 

(もちろん、パート先生として誇りを持って働いていらっしゃる方も大勢いらっしゃいます。
春夏冬と子どもたちと同じスケジュールで休暇がある講師という仕事は、小さなお子さんがいらっしゃる方にとって、ベストスケジュールな仕事ともいえます)


日本の教育教育界はやりがい搾取で成り立っている。
私は講師という低待遇を甘んじて受け入れている。
みっともなくしがみついている。


こんな状態で自信を持ってキラキラの笑顔で面接で希望を語る……なんて、私にとっては土台無理な話でした。
そこで私は発想を転換させることにしました。

 

私が自信を持つのではなく、「自信を持った私っぽいキャラクター」を作り出し、それを私が演じれば良いのではないか、と。

自分を見つめようとしても、長年の経験から自動的にネガティブバイアスがかかってしまう。
自分をまっすぐ見つめることができないのなら、自分とよく似たキャラクターをデザインし、その設定を作り上げていくことで、客観性を持って自分自身を見つめることができるのだろうではないだろうか。

 

というわけで、仮キャラクターを創出することにしました。
自分に似たイラストを書き、その「彼女」の長所・短所、「彼女」が目指しているもの、大切にしているものをどんどん書き込んでいく。
「彼女」が好きなものは何なのか、許せないことは何か、子供たちにどんなふうに育って欲しいのか。
そう思うに至った体験は何なのか。

キャラクターを作り上げながら、自分自身を掘り下げていく。
まるで自分の半身を見ているような気持ちでキャラクター設定を固めていきました。

個人的に、このキャラ付け作業はやって良かったと思います。
ぶっちゃけると、役に立ったかどうかはわかりません。

 

ー・ー・ー・ー

 

少し話を脱線させますが、皆さんは「自分探し」をしたことはありますか?
私も高校~大学生の時、自分探しという暗渠に迷い込みました。
私とは何か? ということを考え、軽くパニックになった経験があるのです。


私はよく「変な子」「面白い子」って言われていました。
私自身、「変」「面白い」と言われるのが嬉しくて、次第に自分が選択をするときに、「これは変な子・面白い子が選ぶものだろうか?」というふうに、何かを選ぶときの基準に「他人からの視点」を入れるようになりました。
自分の望みを差し置いて、「他者からどう見えるか」という観点に意思決定の基準をスライドをさせたのです。


私は人に「面白い」って思われたい。
実感として、私の選択は他の人に「面白いね」「なぜそれを選んだの?」と言われることが多かった。
しかし、それは私が選んだ事物に対する偶然の結果であり、誰かに「面白い」と思われたくて選んだものではなかった。
たまたま、私の選択を「面白い」と感じる人が多かっただけのことだ。
なのにいつの間にか、誰かに面白いと言われたくて、それに合わせて選択するようになってしまった。
自分が心から「これがいい!」と思う選択を押し殺して。


誰かにこう思われたいという理想の自分。
その理想と自己が乖離する時、私は引き裂かれるような痛みを覚えました。
誰かに「面白い」と言ってもらえるような理想の自分。
でも、自分の選択を他者が常に「面白い」と感じてくれるかはわからない。

こう思われたいという理想はあるけれど、それを目指すことは果たして良いことなのか?
何かを選択するとき、他人の意思に依存するのが健康的なことだとは思えない。
だってそれは「自分が心から望んだ選択」ではないからだ。

 

ならば、「自分が心から望んだ選択」とは何だろうか。

「自分が本当に心から望んだ選択」って何だろう。
そんな確固たる選択を、私ができるだろうか。
他者からの視点にがんじがらめになって、こんなにブレブレなのに。
もし「他者の視点」や「他者からこう思われたいという欲求」を一枚一枚はがしていけば、何者にもとらわれない純粋な自分が、”本当の自分”が見つかるのだろうか?

 

他人に影響を受けまくり、どこまでがまっさらな自分であって、どこからが他人の影響を受けた”準・私”なのか。
あやふやでどうしようもない”自分”に対して、どのように接していけばいいのだろうか……。
そんな時に出会ったのが、社会学であり、ドラマトゥルギーという考え方でした。

 

「世界は人と人とが役割を演じるドラマである」

 

子どもたちの前では凛とした先生を、職員室ではのんびりした同僚を、SNSではちょとカゲキな趣味垢を。
それぞれ必要な場面に応じ、求められる役割を演じる。
世界は人と人とがそれぞれの場面に合わせて、その場面に合うように、お互いに与えられた役割を演じ合っている。

どの場面を演じるか(誰に相対するか)によって、求められる役割は変わる。
人間は社会的な生き物なので、人と関わらずにはいられない。
場面や出会う人によって演じる役割が変わる以上、確固たる自己・変わらない唯一の自分など存在しないのだ。

 

自己は常に変容する。
目からウロコと言うか、私は自分を「変わっていて面白い子」というふうにキャラ付けして、自分を狭く苦しい場所に押し込めようとしていたことに気づきました。

 

「友達に面白いって言われたい(カッコつけたい)私」
「他の人に面白いって言われる私(理想の自分)を掲げ、それになりたいと行動する私」
「いや、それでいいのか!? と葛藤し、他の人にどう見られるかなんて関係なく、自分の好きなものを好きだというべきだ! と高らかに宣言する私」


そのどれもが私なのだ。

(余談の余談だが、私は他人に対し「○○さんってこうだよね」という決めつけの言葉は言わないようにしている。
 知らず知らずのうちに人に呪いをかけるような言葉だからだ)


この考え方は、生きていく上での息抜きになったというか、私の肩の力を抜いてくれた。
しっかあし!! 面接という「君はどんな人ですか」というのを率直に求められる場では、この懐の広さが仇となってしまうのです。

 

「あなたはどういう人なのですか?」
「場面によって私に求められる役割が違うので、その時々によって私は変わります」

 

そんな曖昧な答えは面接では求められない。
ひとつの方向性を示すという意味でも、今回のキャラ設定作業は役に立ったと言えます。


練習環境と練習方法

 

面接内容や自己像の掘り下げ、アピールしたい人物像などは、自分をキャラクター化することで一定の方向性をもって作り上げた。
後はそれをどう形にするか。アウトプットの練習です。
去年から私は一人暮らしを始めたので、自分だけの思いっきり練習できる環境は手に入れていました。

面接の練習自体は昨年も一昨年もしました。
だが、いつもと同じ練習ではいつもと同じ結果しか手に入らない。
そこで、練習方法もアップグレードすることにしました。

 

今回、練習時に私が付け加えたことは三つ。

1 ひたすら声に出す
2 鏡と友達になるwithバランスボード
3 他の人に聞いてもらう

 

1 ひたすら声に出す

頭の中で考えるときに使う言葉(内言)と、実際に口に出すコミュニケーションのための言葉(外言)は違います。
よく「女の子は頭の中が多動」と言われるのですが、私もそのタイプです。

常に脳内で一人でしゃべっていますし、周囲の人の会話に脳内で相槌を打ったりコメントしたりしているので、一人で黙っていても全然退屈しないのです。
その場で一言も発言していなくても、バリバリ会話に(脳内)参加しているため、自分が全くしゃべっていないことに気付いてすらないこともあります。


そのため、あまり喋らない人だとか、何を考えてるのか分からないとか思われることもあります。

内言と外言の違いはたくさんありますが、面接においての違いは大きく二つ。

1 内言は噛まない→アクシデントに弱い
2 内言はあっちこっちに飛ぶが、外言では一貫性が求められる

1 内言は噛まない→アクシデントに弱い

脳内で適当にしゃべっている言葉は息切れすることなく永遠に続きますが、実際にそれを声に出そうとすると、言葉に詰まってしまったり、助詞が合わさって変な言葉になったりします。
(内言「~だな」+外言「~ですね」=実際の言葉「~だすね」みたいな)

 

変なことを言ってしまったり噛んでしまったり。
声に出す練習をしていないと、些細なアクシデントに動揺し、一旦止まってしまう。
実際に声に出してアウトプットすることで、間違えたり噛んだりしてもすぐに立ち直る練習ができる。
ついでにハキハキとしたゆっくりな口調の練習もできるし、抑揚もつけられるようになります。

 

2 内言はあっちこっちに飛ぶが、外言では一貫性が求められる

これについても1と同様で、実際に口に出すとよくわかります。
内言だと永遠にしゃべり続けてしまうのですが、外言(口に出す)にすると迷走したら止まります。
(話が長くなりすぎて息切れする)

そういう場合は一端止めて、ポイントを確認してから再スタートします。
地道な練習ですが、これも続けることで多少話が脱線してもすぐに本線に戻れるようになりました。


2 鏡と友達になるwithバランスボード

水谷さるころさんの本で、「一人暮らしで誰とも話す機会が無いときは、鏡と話して自給自足をしている」という話が書かれていました。
「鏡と話す」!? えっこいつはかなりヤバイ状態なのでは……と思いましたが、今は考えを改めました。
声を大にして言おう、鏡と話すことは有効であると。

 

なぜ鏡と話すことが有効なのか?

なぜなら、脳は主客を判断できないからだ。

一応、鏡をのぞいたとき、そこに映っているのは自分自身だと私たちは理解することができます。
しかし、それはあくまで脳みそが「鏡に映っている人物は自分だと思え」という命令を下すからです。
その命令はいついかなるときも下されるわけではありません。

脳からの命令が降りてこないとき、私たちは鏡の中の自分を「ただの人物」として認識します。
鏡のなかの人物を自分(主客・主体)だと判断できないため、鏡を見ている自分はその鏡の中の人物をただの他人として認識します。

 

他人が笑えば、私たちの脳内にあるミラーニューロンが働きます。
目の前の人物の行為をコピーし、再現しようとするのです。

自分の笑顔を鏡に映せば、それを模倣しようと自分の表情筋も動きます。
表情筋も筋肉なので、回数をこなせばよりスムーズに笑顔を作れるようになります。

何度も練習するうち、だんだんと鏡の中の笑顔が板についてきます。

 

鏡の中の自分が笑う。
それが嬉しくて、実際の自分が笑う。
実際の順番は逆なのだが、人間のミラーニューロンは素直に仕事をしてくれます。
自然の笑顔をキープし続け、それが癖になればオールOKです。


唐沢寿明さんのエッセイ『ふたり』の中でも、
「オーディションに受からなかったので、白シャツを着て鏡に向かって微笑む練習をした」
というシーンがあります。
「鏡に向かって笑顔の練習をする」ことは、わりとメジャーな練習なのかもしれません。

今回はこれにあるものをプラスすることにしました。
バランスボードです。

 

なぜバランスボードかというと、ちょうどステイホームが流行り始めた頃に運動不足対策の一環として購入していたからです。
これに、テレビ見た千住真理子さんの練習方法をドッキングさせました。
ウルトラせっかちで有名な千住真理子さんは、パワープレートという一秒間に50回の振動を発生させる装置の上でバイオリンを弾き、効率よく体幹を鍛えているそうです。

バランスボードで体幹インナーマッスル)を鍛えつつ、鏡に向かってニッコリと微笑み、ノートを確認しながらひたすら鏡に向かって喋り続ける。

 

「いじめの定義はなになにです、私がいじめ対策として取り組もうと思うのは……あれ、ちょっと長くなっちゃった。おし、もう一回やろ。私がいじめ対策として取り組んでいくのはこれこれです。なぜなら……」

 

こんなノリで毎日15分ほど、鏡の前でバランスボードに乗って面接練習をしました。
志望理由は毎回口に出すようにしました。
途中で話がややこしくなってきたら一旦止めて、何が言いたいのかを「つまり」でまとめます。


ノートをペラペラとめくったり、考え込んで視点が明後日の方向を向いたりすると、たちまちバランスボードが傾きます。
ぐらついた時は壁に手をついて支えたり、ボードから下りたりして、危険すぎない範囲で練習しました。

二次試験前の15日間は毎回やっていました。
この練習はパジャマ姿もできるのでおすすめです。
(服着替えろよって話ですが)


3 他の人に聞いてもらう

2400年前にソクラテスが言った通り、問答こそが真実に至る方法だというのか。
王道ですが、人に聞いてもらう、という工程を経て私の面接は完成しました。

アピールするべき自己像の構築、それを毎日鏡に向かって口に出し、確認する。
それをバランスボードの上で行うことで体幹の強化も図る。
にこやかな笑顔もデフォルトでできるようになってきた。

これだけでも今まで以上にわかりやすい面接にはなりました。


本番の1週間前、ちょうど元カレから連絡があったので、使えるものは親でも使おうと思い、食事がてら面接の練習をしてもらうことにしました。

元彼に面接ノートを渡し、この中から何でも出してくれ、と問題を出してもらう。
志望理由、虐待の定義、理想の教師像などなど……。
自分ではない誰かが質問してくれることのメリットは、追加質問が来るということにあります。
それってどういうこと? そこから何を学んだの? など、追加質問にもしっかりと答えていきます。


そして、学生時代に頑張ったことについて聞かれました。
私は以前から考えていたとおり、美術館巡りだと答えました。

 

なぜ美術館巡りをしていたかというと、三ヶ月にいっぺん某国擬人化漫画のイベントに行くついでに行っていたからです。
せっかく東京・大阪(ビッグサイトインテックス)に行くのに、イベントだけじゃもったいないよなー、あ、私学芸員の資格取ろうとしているし(結局諦めたのですが)そうだ、展覧会に行こう!

……ってな感じのノリで、イベントで遠征するついでに毎回展覧会を2,3個はしごしていたのです。


(私が大学生のときはビッグサイトの東ホール1~3すべてが某国擬人化で埋まっていました。
 某国擬人化、2021年にまたアニメ化しますね!
 そしてびっくりな擬人化が……いや、もともと人間だけど…!)

 

まあ、本当の動機を言うわけには行かないので、面接用に考えてきた回答を言います。
「大学生という自由時間を存分に使い、一つでも多く本物に触れたかったからです」と。

 

追加質問が来ます。
なぜ、本物を見ようと思ったのか? そもそも、本物を見ようという行為にどんな理由が、価値があるのか? と。

(ええ? そりゃ見たいでしょ本物とか、有名作品とか!
 でも、それを見ることで私は何を鍛えていたのだろう……審美眼?
 芸術品のバイヤーを目指していたわけでもないのに?)

私はしどろもどろになりながら必死で思考をめぐらせました。

(美術館巡りで得られた能力……?
 東京・大阪遠征のための資金繰り、計画力、一人旅の度胸……それももちろんあるけれど……)

当時のことを思い出しながら、私は少しずつ言葉をつむぎました。
3ヶ月ごとに美術館に行きまくる中、私が何を得たのかを。

遠征中にどの美術館を巡るかは、チラシやネットを見て決めていました。
そこに載っているメイン作品や有名作家の超大作をチラ見して、いいなあと思うものをピックアップしました。
美術館に着き、実際にその作品たちを目にするまではドキドキです。

そして、実際に作品を目にする。
もちろん、うわさにたがわぬ素晴らしい作品もありました。
10メートルを超える巨大な作品に心奪われ、20分くらいぼうっとしていたこともあります。

しかし、多くの作品は私の網膜を通り過ぎるだけでした。

(うん? あれ??
 私が美術館めぐりで身につけたことって、

  「どれだけ超大作なんてうそぶいていても、
   実際はそうでないことのほうが多い」
 っていう実感……感覚??)

私は「やっぱ微妙だった・すごかった」という判断を下すためだけに美術館に通いまくっていたというのか!?
クイズ番組でマルかバツかの札を挙げるような、そんなつまらないジャッジをするために?

…………いや、待てよ。
順番が逆だ。

私がそんな風に思えるようになったのは、自分の目で多くの作品を見たからだ。
私が自分なりにジャッジを下せるようになったのは、自分の中に価値観の積み重ねができたからだ。


多くのファンをもつ作家の傑作でも、何々派の頂点だと言われても、私にとっては
「……うん。まあ、悪くはないけど……」
としか思えないものもあった。
また、
「何だこの作品!! すっごくいい!!」
そう思って物販コーナーに行ったら、私が感動した作品はグッズどころかポストカードにさえなっていない、ということもあった。
(はあ? なんであの作品がポストカードにすらなっていないわけ??
 ここの連中の目は節穴か?)
と、心の中で暴言を吐いたこともありました。

 

何が言いたいかというと、何を良いと思うか、何を嫌だと思うかは個人個人それぞれの価値観の違いであり、そこに優劣はない。
大人気作品といえども、たまたまそれを好きと思う人が多かっただけで、自分がその作品を好きになるかどうかとは関係ない。

 

世間の評価と自分の評価が一致しない。

そんなのは当たり前のことなのだ。
何百もの作品を通り過ぎることで、私はそのことを実感として身体に刻んだ。

 

けれど今の時代において。
世間の評価とは関係なく、自分が好きなものを好きだとを言うことに、どれほど勇気がいるだろうか。

 

テレビ、インターネット、SNSを通して、世間の声は常時音量マックスで流されている。
誰が人気で、どれが一番で、何をするべきだと、耳をふさいでも、そこかしこから絶え間なく聞こえてくる。
そんな中で自分の感性を守ることの、なんと難しいことか。

何かを好きだと思っても、世間は大声で

「もっといいものがあるぞ!」
「何だそれ? 誰もそんなものの話はしていないぞ」
「こっちのほうが絶対おもしろいよ!」

と、けしかけてくる。
そんな中で自分の心に灯った「好き」という小さな炎を守り続けるのは、とてつもなく難しい。

 

ああそうか。


私が美術館巡りを重ねて得たものは、
静かな場所で作品と向かい合い、少しずつ積み重ねて行ったものは、
幾層もの価値観の積み重ねが、私に与えてくれたものは。

私の感性を、気持ちを、好きなものを好きだと言いたい心を守り、支えてくれる、自分への自信だ。
そしてこれこそが、今の子どもたちに一番必要なことではないだろうか。


……これだ!

点と点、過去と未来、自分と世界がつながった瞬間でした。


私はもう一度志望動機を構築し直しました。
私が育てたいのは、子ども達の感性であり、私のするべきは、彼らが自分の心に向き合えるよう、サポートすることであると。


感性は酷く脆い。
常に風前のともし火だ。
家族の言葉、友達という同調圧力、これが正解だといわんばかりのメディアの喧伝。
嵐のように吹き荒れる情報社会の中で、自分の感性のろうそくを灯し続けるためには、自分の「好き」と「きらい」を積み重ね、価値観の層を厚くしていくことが大切だ。
自身の価値観の積み重ねが、自信を作っていくのだ。

 

ー・ー・ー・ー


面接の時、面接官の方が「あなたは生徒の感性を大切にしたいのですね」と、そう応えてくれたとき。
自分の気持ちが伝わったという、かつてない手応えを感じました。


色んな回り道をしましたが、また新たなスタートラインに立つことができました。
今回、私にとってキーポイントとなったのは、


「自分のブレなさはどこから来ているのか?」

でした。

「私はブレない性格なので、○○できます」ではなく、
「私のブレない性格は、□□からきています。なので、□□は子どもたちにとっても大切だと思います」
と、自分とクライアント(子どもたち)に共通点を持たせられたのが勝因かなと思います。

自分ひとりではこのことに気づけなかったこと。
そして、元カレに助けられたというのも若干悔しくはあります。
ま、一人ではできないこともあるもんね!

 

【参考図書】

 

 

 

ふたり

ふたり

 

 

フーシー限界オタクの嘆き。

 

羅小黒戦記に最近は週一で通っている。
好きなキャラや作品には毎週のように出会っているけれど、魂レベルで共鳴できるキャラクターには3,4年に一度出会えるかどうかなので、心行くまで狂っておきます。

 

(ちなみに、フーシーの前にドはまりしたのは文豪ストレイドッグスのあくたがわ君です。
 2017年の秋ごろでした。
 こんなにもダイレクトに「ただこの人に認められたい(愛されたい)」と全身からほとばしらせているキャラがいるのか! と胸を打たれました。
 20巻で彼は大変なことになりましたが……いやもう、どうなっても見届ける気ではいますが……。
 ○なないよね!??? え? ???)


フーシーのことを考えれば考えるほど、ムゲンについても深まっていきます。
妖精の中でのはみ出し者と、人間の中でのはみ出し者。
青を基調としながらも、つんつん系のフォルムと丸みを帯びたフォルムというキャラクターデザイン。
そしてどちらも、シャオヘイにとっての大人(先導者)という立ち場にいる。


二人ともシャオヘイを子ども扱いしていたので、彼らが撫でるのはシャオヘイの頭だった。

だが、ムゲンはラストでシャオヘイの肩に手を置く。
守るべき幼い子どもではなく、一人の仲間として協力を求める。

 

ムゲンは初め、シャオヘイに対して寡黙だった。
言葉を使わなかった。
おそらく、言葉で説明してわかるものではないと、決め付けていたのではないかと思う。
彼らの旅が深まるたびに言葉も深まっていった。
ムゲンにとって、言葉でコミュニケーションするということは一人前の存在として認めるということなのではないだろうか。


これに対になるように描かれているのがシューファイだ。
彼も寡黙から饒舌へと変わっていく一人である。

離島での話し方と、島を出ての話し方がぜんぜん違う。
その契機となるのが、数少ない彼の顔面のアップと、「お前……」の後の数秒の沈黙だ。


きっとあの瞬間にフーシーの想いを悟って、覚悟を決めたんだろうな……。


これは私の意見ですが、ぶっきらぼうでカタコトみたいなしゃべり方のときがリラックスしているシューファイ(本来のシューファイ)で、なめらかなしゃべりのシューファイは今回の戦いのために彼がかぶったペルソナなのではないかと。

 

仮面という言葉は直接的すぎですが、フーシーの願いを叶えるために決めた覚悟が、よりシューファイを饒舌に、なめらかにしているというか……。


(焚き火シーンでの「なかなかやるな」と、
 ロジュのセリフに間髪いれず返す「だめなら、時間をかせぐさ」では、発声法から違うような気がします。
 後者のほうがよりなめらかで、ロジュを安心させるような気配りも感じられます)

 

ムゲンの饒舌さは信頼を表し、シューファイの饒舌さは仲間のために自己を律した反作用…みたいな。
うまく言葉にできませんが。


物語を楽しむということ

作品には演出がある。
なので、演出の意図を読み解くという楽しみ方がある。


作品のテーマを考えてみたり、監督が伝えたいメッセージはなんだろうかと予測してみたり。
推理小説の謎を解くように物語を読み解く。
それも鑑賞法のひとつである。

 

しかし、鑑賞回数が5回を越えたあたりから、そういった挑戦的な気持ちはほとんどなくなりました。
見るたびに新しい発見、気づきはあります。

 

今はただ、フーシーを見るために劇場に通っています。
彼の声に耳をすまし、彼のおろかなほどの真っ直ぐさを見つめ、彼の生き様を目に焼き付けている。

 

フーシーの立場を応援したいわけではありません。
ただ、彼の(およそ正しいとは言いがたい)行動を、選択を、そして責任の取り方を、胸を痛めながらただ見つめていたいのです。

 

…字面だけみれば、ずいぶんマゾヒスティックな感じになってしまいますね。
ですが、フーシーの生き方を、物語を眺め続けている間、私は共に生き、共に涙し、共に傷ついている。

その時間を「幸せ」と名づけるのは、感傷にひたりすぎだろうか。

 

物語を楽しむということには、隠された謎を解くという面白さだけではない。
登場人物の心に、喜びに、痛みに、ダイレクトに触れられる。


やわらかな羽毛に顔をうずめては、心から安心できるような。
ざらりとした岩肌に触れ、思わず腕をひっこめてしまうような。


そんなプリミティブ(原始的)な楽しみ方があることを、この作品は改めて私に教えてくれました。
(物語を読んでわくわくし、ハラハラする。
 そんな当たり前の楽しさを思い出させてくれました)



最後に。

私も羅小黒戦記を見て、中国語への熱が再燃しました。


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(聴く中国語 2021年1月号より

  地元の本屋に朝イチで電話してゲットしました)


何年か前にも中国語に挑戦したのですが、簡体字になじめず挫折してしまいました。
略字はともかく、脈絡のない字の置き換えがどうにも腑に落ちなかったのです。
(なんで「茶葉」が「茶叶」になるんだ!? という)

羅小黒戦記のキャラクター名は簡体字でも繁体字でも、どっちも似合うなと思います。
ただ、フーシーに関しては簡体字のほうがしっくりくる気がします。

 

”风”は、風の中心に傷がある。

 

私も日々ツイッターなどでいろんな方の意見を拝見しています。
多くの人の気づきに触れて、私もやっと、見届けることができました。
まだ見ていらっしゃらないかたは、ぜひ、彼の傷を見届けてあげてください。

教員採用試験合格記 その一

7,8回目の挑戦にして、ようやく合格できました。
昨年、3度目の2次落ちを経験した時は「もうここで働くのは無理なのでは…?」と絶望しましたが、なんとか引っかかることが出来ました。

自分の備忘録として、記しておこうと思います。
もし、これが誰かの手助けになれば幸いです。

 

教員採用試験合格記

 

0 教員という仕事(プロローグ)

 

私は新卒で某携帯販売店のスタッフとして就職し、三年目で教職へと転向しました。
大学4年生のときも教採を受けたけれど、そのときは一次にすら引っかかりませんでした。
在職中も何度か教採に挑戦しましたが、箸にもにも棒にもかからない。
当時は石の上にも三年神話を信じていたので、少しずつ勉強しながら日々の業務をこなしていました。

3年目、やはり教採は一次落ちしてしまいましたが、この仕事にも未来が見えなかったので、考えた結果、教職への転職を決意しました。
せっかく教員免許取ったし! 手持ちのカードは使いたい!

当時は大手キャリアがインターネットやら家事代行サービスやら、それどうなん? という業界と融合をはじめた時期でした。

なりふり構わないキャリアの姿は、やたらめったら触手を伸ばし、なんでもかんでも体内に取り込み、醜く巨大化して鈍重になったあげく倒される、バイオのラスボスのように見えました。
なお、格安スマホが台頭した現在となっては、私の選択はグッドタイミングだったなと思います。


転職してからは非常勤講師として、バイトで収入の不足を賄いつつ、働きました。
途中、一度だけ常勤講師として担任も持たせてもらい、(色々なアクシデントの中で)下手したら死ぬ業界であることを身をもって体験しました。

瑣末な雑務も積み重なれば山となり、じわじわと心を削り取っていく。
余裕を失った心では子どもたちとまともに向き合うことはできません。
「あ! これ授業に取り入れたら面白そう!」そう思えるエネルギーをどれだけ維持し続けられるか?
心の体力管理も仕事のうちとはいえ……人間には限界があります。


それでもなんだかんだやってきたのは、教員って仕事が楽しかったからです。
特に私の担当する国語という教科は、「これより面白いことってないのでは?」とつい思ってしまうほど、魅力にあふれています。


自分が美しいと思うこと、大切だと思うこと、人間の強さや弱さについて、生徒と共に深められること。
人の内側に触れ、人の視線の先を生徒と共に見つめること。
人間というおもしろい存在について、双方向に刺激し合えるこの仕事が、私はものすごく好きです。


(私自身は授業中にこっそりマンガ読んでるようなトンデモ中学生だったので、学生時代は教員になるなんて考えていませんでした。
教育実習の時、「きっと当時の私みたい子ばっかで、授業なんかクソ喰らえって思ってんだろうな…」という思いで教室のドアを開けた瞬間、自分のアホさ加減に恥ずかしくなりました。
目の前の子供たちは、新しい先生や、これから習う未知の世界に胸を弾ませ、瞳をきらめかせて歓迎してくれました。
「この子たちと本気で向き合いたい!」と思い、その情熱のまま現在に至ります。

日本の未来や教育について悲観する声は多いですが、現場としては、あの子たちのキラキラを裏切るようなことだけはしたくないのです。
たぶん、同じ気持ちで教壇に立ってらっしゃる先生は多いのではないでしょうか)


それでも、不合格通知を貰う度に心は擦り切れて行ったので、不安定な状態を続けるより、よそに行こうかと転職サイトに登録もしました。
でも、現状から足を踏み出す勇気もありませんでした。

一応、自転車操業とはいえ生活はできるし、まあこのままでも…と、諦めたとき、転機が訪れました。
色々な条件がそろい、合格に向けて頑張ることができました。

なぜ、頑張ることができたのか。
今回は三つにわけて話そうと思います。

 

0 教員という仕事(プロローグ)

1 校長先生との出会い
2 座学と向き合う
3 面接と向き合う


1 校長先生との出会い

それまでも様々な先生方が手助けをして下さっていたのですが、その校長先生は特に熱心に私の面倒をみて下さいました。

校長先生自ら作文のテーマを提示してくださったり、自分の核となるものを示せるよう「目指す教育のあり方」「理想の教師とは?」など、突っ込んだテーマでの文章を書かせて下さいました。
10作くらい書いたでしょうか。
ご多忙の中、ここまでして下さる校長先生は初めてでした。
また、あなたの強みは表現力だから、それを生かせるようにしよう! と、アドバイスもいただきました。

…こんなに良くして下さって、……この方の前で醜態を晒すわけにはいかないな。
武士道とは死ぬ事と見つけたり。
死に場所(目標)を見つけた私は、生まれて初めて死ぬ気でやらねばと思うことができたのです。


2 座学と向き合う

仕事をしながら勉強するって本当に大変ですよね。
というか、サボっちゃいますよね。
私の場合、一次試験は何度か受かっていたので、元々やっていた勉強法を繰り返すということをやりました。

まず、現代文は週に一、二回は問題を解くようにしました。
私の志望先は評論しか出ないので、評論に集中。
問題集ジプシー(とっかえひっかえ)をしていたので、そのコレクションの中から、解説が豊富で解説文に納得できる二冊に限定し、適当に問題を選んで解いていきました。

問題の中で差がつくといえば、記述問題ですよね。
私も記述問題は苦手です。
しかし、記述問題の攻略に裏技はありません。
答えあわせをするとき、どの要素が拾えていて、どの要素は拾えなかったのか。
地道に分析して、自分の「見落としの癖」をつぶしていくのがいいかなと思います。


古文は数年前まで、ベストな一冊を繰り返すという手法で勉強していました。
しかし、ある時点で頭打ちになってしまったため、やり方を改めました。
当時は『東大の古典25ヵ年』という問題集に取り組んでいました。
(東大に入れたら教採くらい受かるでしょ! って思ってやってた)

基礎的な文法、単語を覚えて九割方の問題は解けるようになっても、残りの一割が解けなかったのです。
それは人物の心情考察に関する問題でした。

なぜかというと、古典世界の考え方が身に付いていないからです。
普段、ファンタジーの小説は読んでいても、作者が現代の人間である以上、現代の文化・常識を下敷きにしています。
共通の価値観の中で物語が作られているのです。
そのため、どんなにファンタジーな展開になったとしても(変身しようが、ナゾの光に包まれようが、急に泣き始めようが)そういうストーリーとしてそのまま受け止めることができます。


古典は価値観の土台が違います。

短い問題文の中だけだと、急に出てくるおとぎ話要素に対して、認知のバグが起こってしまうのです。
(現代のファンタジー、フィクションだと素直に受け止められるのに)古文の場合、急に出てくるファンタジー要素に対して、それが事実なのか、ファンタジー展開として認めていいのか、なぜいきなりそんなことを言い出したのか、素直に受け止めることができなくなってしまうのです。

なんで、こう、なったん??

古典の価値観についていけず、混乱した脳が勝手な解釈でつじつまを合わせることで、無理やり納得しようとします。
つまり、古典の価値観ではそれが常識だけれど、現代常識とはあまりにかけ離れているため、脳みそが勝手に自分の価値観に合うようにお話を作り替えてしまうのです。
私の場合、そこが点数が上がらないウィークポイントでした。

いくら問題を解いても、間違った解釈では正解にはたどり着けません。
問題文という短い文章を繰り返し読んだところで、私の勝手な認知修正は直りませんでした。
これは、問題文という短い文章にしか触れていないというのがいけないのでは?

そう考えた私は、古典を一冊を読み通す、という方法を取り入れることにしました。
寝る前の十五分から三十分ぐらいを読書に当て、一日2,3ページほどのペースで読んでいく。
だいたい一ヶ月半くらいで読破できたと思います。
今回は『竹取物語』の読破に当てました。
ちなみに、去年は『更級日記』を読んでいました。
(薄いのがお勧めです)


漢文も同様の方法を取りました。
ただ、漢文って一冊の面白い小説っていうものがないんですよね。
『春秋左氏伝』とか読んでみたけど、結局は小話の羅列なので、途中で飽きてしまいました。
まあ、私が好きなのは漢詩なので、漢詩でいっか! ってことで、漢詩の本を読んでいました

漢字については、漢検二級を取ろうと思い立って問題集だけ買っていたので、それをよくやっていました。

一次試験は何度かパスしていたので、座学は「ちょっとづつ頑張る」をモットーに、古文や漢文に慣れておくようにしました。

 

 

ちくま評論選 (高校生のための現代思想エッセンス)

ちくま評論選 (高校生のための現代思想エッセンス)

  • 発売日: 2012/11/01
  • メディア: 単行本
 

『ちくま評論選』は現代文で頻出するテーマがほぼ網羅されています。

読んでいるだけでも楽しい、珠玉の評論ばかりです。

こちらはネットで評判だったので購入しました。

解説が細かく、図解もあるのでわかりやすいです。

東大の古典25カ年[第8版] (難関校過去問シリーズ)

東大の古典25カ年[第8版] (難関校過去問シリーズ)

  • 作者:栁田 縁
  • 発売日: 2016/03/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

全ての古典・漢文の日本語訳が載ってるのが強み。

基礎的な問題と上級問題(古典常識・仏教知識などが必要とされる問題)があり、幅広さを感じさせる問題集です。

 

茶席からひろがる 漢詩の世界

茶席からひろがる 漢詩の世界

  • 作者:諸田 龍美
  • 発売日: 2017/08/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

断片だけ聞いたことあるフレーズに対して、深い理解を示してくれます。

特に楊貴妃の色気に関する考察がおもしろかったです。




さて、次は一番向き合わねばならない面接です。

善とか悪とか正しいとか間違ってるとか、私たちはカテゴリ分けから自由になるべきなのかもしれないーー羅小黒戦記を見て


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「アクションがすごい中国製アニメ」という知識だけで見に行った羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ)。
ぶっちゃけ、今の中国アニメってどんなレベルなんだろう? お手並み拝見☆ というやや上から目線な気持ちで見に行ったのですが、いい意味で期待を裏切られました。
すんばらしく面白かった!

 

 

※ここからは若干のネタバレを含みますので、未視聴の方、新鮮な気持ちで羅小黒戦記を楽しみたい! という方はご遠慮ください。

 

 


善とか悪とか正しいとか間違っているとか、
私たちはそんなカテゴリ分けから自由になるべきなのかもしれない

 

シャオヘイの「フーシーは○○○○○なの?」という問いに対するムゲンの返答。
あの台詞は言い換えると「自分で考えろ」ということなのだと思う。

私はこの作品を「中国のアニメーション映画」という視点で見ていたので、共産主義(平等を是とする全体主義)の国の作品からこんな台詞が出てくるということ自体が驚きだった。


フーシーの願いである、自分の故郷を取り戻したいということ。
しかし、そこには既に多くの人間が住んでいて、巨大なビルが林立している。
住み着いている多くの人間を追い出し、かつての故郷をとり戻すのは到底不可能だ。

無理な願いにあがくフーシーに対し、妖精たちは要求する。
「人間と共生せよ」と。
すでに人間の中に混じり、人間と関わりながら楽しく日々を送る妖精たちもいる。

だが、「共に生きる」という美しいワードにだまされてはならない。
結局、それは強者からの強制であり、意見の押し付けだ。
「順応出来ないものは、滅びよ!」
そんな強者からの傲慢な命令でしかないのだ。


人間との共生を望まず、自分の故郷を取り戻したいと願うフーシーに対して、「人間と仲良くしろ」と要求すること。
それはつまり、弱者に我慢を強いて、言うことを聞かせることに他ならない。
弱者の意見を押しつぶし、強者の希望を押し通す。
……その結果何が生まれたのか、私たちはもう知っている。

弱者を虐げ、こぼれた利益を強者が搾取する。
そうして積み上げられたのが、天地ほどの差が開いた格差社会だ。


「俺はここがいい」というフーシーの願い。
それをわがままだと決め付け、断罪するのは強者の身勝手だ。
強者の論理に従わぬから、強制的に排除するのだ。

願いに優劣も、善悪もない。
ただ強者の願いは叶えられ、弱者の願いは切り捨てられる。
弱者が我を通すこと。
強者の暴力をかいくぐり、弱者が願いを叶えること。
その難しさ。そして、尊さ。
これを尊いと言わずしてなんという。

願いの成就はいつだって尊いものなのだ。

 

―・-・-・-


ラストシーンは「自分で考えろ」というメッセージに対するシャオヘイの答えなのだろう。
第一印象の悪者のイメージではなく、自分で考えて、自分の見方で、自分の決定をした。


……しかし、大丈夫なのか?
深読みをすれば、なのだが、この作品は弱者が我を通すことを表現している。
つまり、強者への抵抗であり、弱者の勝利を示唆している。
(大きい声では言えないけれど、左上の……あそこらへんとか……)


(余談だが、私がここまでこの作品に感銘を受けるのは、ダブルオーの映画で納得できなかったという経験があるからだと思う。
「人類VS謎の宇宙生命体!? どうやって決着つけるんだ!?」と、わくわくしながら見に行ったら「みんな進化しよう!」という結末で……。
ガンダムって、様々な陣営の苦悩や理想を描き出す群像劇なのに、単一の答えに帰結するのか……ということで、なんだかモヤモヤしたのだ)


あー、おもしろかった!
そして我を通す櫻井孝宏さんボイスの、悲痛さというかなんというか…!
もうだめ、泣いちゃう。


善とか悪とか正しいとか間違っているとか、そんな下らないカテゴリに振り分けて、一方をヨイショし、一方を断罪する。
幼児のように徒党を組んでケンカをふっかけるのはもうやめにするべきだ。
一つの個として、自分自身で考えるべきなのだ。

 

参考作品

・映画『羅小黒戦記』
・映画『機動戦士ガンダム00―A wakening of the Trailblazer―』

小、中学生こそ万年筆を使うべきではないか

ドイツでは小学校2年生から万年筆を使うらしい。
地域によっては、万年筆使用許可証というライセンスまで発行しているそうだ。
日本もそうするべきではないかと思う。


なぜなら万年筆は、


1 筆圧がいらない
手が疲れないので、たくさん書ける
”書くこと”がストレスになるのを防ぐ


2 持ち方アシストが付いている
指を持ち方ガイドに合わせるだけでさらさら描ける
鉛筆は正しい持ち方プラス筆圧がいる


3 ”消す”という動作から解放される


など、勉強における”書く”という行為をスムーズにしてくれるからだ。

 

現状


現在の中学生を見ていると、クラスの三分の一から三分の二の生徒は、鉛筆・シャーペンの持ち方が間違っている。
通常、筆記具は親指と人差し指と中指の三本のトライアングルで支える。
それに対して、薬指も加えた四本指で鉛筆を支えていたり、親指の第一関節でベルトのように鉛筆を押さえつけたり、人差し指が”く”の字にそってしまうぐらい力が入っていたりする。
 
正しい持ち方は重要だ。
なぜなら、書くという行為が楽であることが必要だからだ。
中学生は漢字・英単語・数学の計算など、まだまだ書いて覚えることの比重が高い。
手指や手首に負担のかかる持ち方をしていると、


変な持ち方で書く→手が痛い→勉強すると手が痛くなる→イヤだ→勉強はイヤだ


という思考のマイナスルートにつながってしまうのだ。

 


万年筆を使うことで得られるメリット


1 消しゴムからの解放
2 筆圧からの解放
3 美と実用の使い分けに繋がる


1 消しゴムからの解放


『東大生のノートは必ず美しい』とは言うが、彼らのノートが美しく見えるのは、決して「黒板を美しく写した」からではない。
簡潔にまとめられ、余剰がないから美しく見えるのです。
彼らは要点さえあればそこから脳内に収納されている様々な知識を引っ張り出せるので、最低限の矢印やメモなどで事足りるのです。


普通の人は簡潔に書かれた単語だけでは、それらが意図する内容までは思い出せません。
そのため、要点と要点をつなぐ矢印を書き込んだり、プラスのメモを付け加えたりと、補助情報を追加することで知識と記憶を結びつけていくのです。


東大生にとって、美しいノートは勉強の手段ではなく、努力した結果の副産物なのです。
「美しいノート」という結果だけ見るのは、何も考えずに答えを丸写しするのと変わりません。

 


美しいノート信仰から自由になろう


生徒達はなぜ、ノートをキレイに取ろうとするのだろうか。
私は、これはノート点検という悪しき習慣が生み出した負の遺産だと考えています。

 


ノートがキレイ=勉強している、ではありません。
また、一部の生徒はノートを書かなくても聞くだけで理解できる生徒もいます。
聴覚優位の子は特にその傾向が強いです。


私は、ノートを評価対象にするなら、プリントと同じく評価目的を明示すべきだと考えています。
ノートにミニ作文や自分の意見を書かせたり、「漢字を覚えるために工夫をしよう」というテーマを決めたりと、あくまで「自分なりのアウトプットが出来ているか」を評価対象にすべきです。

 


ノート指導の理想は、黒板の板書を元に生徒が自分の考えを書き加えたり、分かりやすいようにイラストや図解を添えたりなど、自分のためのプラスαが書けるようになることです。
ノートは勉強のアウトプットの場なのです。
間違えても、消しゴムでキレイに消す必要なんてない。
二十線でシャッシャッで構わない。

 

 


雑誌『趣味の文具箱』で連載されているコラム、「文具のかけ橋」(ブルース・アイモン氏)で、


フリクションの技術は素晴らしい。
でも、アメリカ人は使わない、
自分の字を消すという習慣がないからだ。
タイプライター文化が根付いてるので、文書作成は打ち込みで行う。
アメリカ人が手で書くのは、日常のメモとサインだけだ」
(『趣味の文具箱』49号より要約引用)


と、書かれていました。
アメリカ人にとって、手書きはパーソナル(個人的)なものなのです。


私は、勉強用のノートもパーソナルなものであるべきだと考えています。
気付いたことや深めたいこと、自分がおもしろいと思ったところ。
ノート点検が害悪なのは、勉強というパーソナルで自由なものに教師の視点というフィルターをかけてしまうからです。

 


2 筆圧からの解放


私は書道や硬筆について専門的に習ったわけではありません。
そのため、書写を専門にする方から見れば、この意見は間違っているかもしれません。

 


思うのですが、シャーペンや鉛筆って、正しい持ち方プラス筆圧がないと書きにくくないですか?
先述した筆記具の正しい持ち方(三本指でトライアングルに支える)だけだと、紙と芯がこすれる振動で指がズレてしまったり、そのズレを防ごうとして人差し指に余計な力が入ったりしませんか?


持ち方サポート(三角形の鉛筆やシャーペンなど)が付いている筆記具を持つとよく分かるのですが、なかなか三本の指だけでは摩擦によって芯を紙に擦り付けて筆記する鉛筆やシャーペンを支えるのは難しいと思います。
私自身もシャーペンを長時間使うと人差し指が痛くなってしまいます(気付いたら”く”の字で押し付けてしまっている)。


その点、万年筆は紙との摩擦を必要としないので、三本指のトライアングルだけで軽やかに書くことができます。

 


3 美と実用の使い分けに繋がる


InstagramTwitterでは、万年筆で書かれた美文字作品がよく上がっています。


万年筆界隈を盛り上げてくださる美文字ユーザーの方々には、心からの御礼を申し上げたいです。
しかし、万年筆の魅力は美しい書写作品を作りあげることだけではないのです。


万年筆が持つ筆致のなめらかさ・書くことへのストレスの無さは、私たちの思考をよりスムーズにします。
私は、万年筆は人間の思考スピードについてこられる唯一の相棒なのでは? とさえ思います。


(鉛筆・シャーペンは手への負荷が大きく、キーボード入力は行の入れ替えやアイディアの追加などを行う際、カーソル移動の手間がかかります)

 


先述したアメリカにおけるタイプライター文化(いわゆるパソコン清書)が一般化した現代こそ、思考スピードを落とさずにアイディアをシャッフルできる万年筆が最高の相棒だと思うのです!


(そもそも、「書類はPC出力」が当たり前の時代に「ノートを丁寧に書くこと」を強要するのはいかがなものかと思います)


下書きと清書は別物であり、下書きは自由に書いていいということを、もっと伝えていくべきだと思います。


美文字や書道などの芸術としての文字があるのと同様に、文字には思いつくままに自由にメモするという実務的な側面もあるのです。


丁寧に手入れされたセダンの美しさもあれば、四輪駆動のジープで思考の隘路(あいろ)を泥だらけになりながら疾走する、そんな良さもあるのです。

 


まとめ


現実問題として、学校にあまり高価な万年筆を持ってくるのはちょっと厳しいものがあります。
カクノ、ペリカーノJr、ラミー、プロシオンなど、せいぜい一万円いかないくらいの物が妥当かなと思います。
落としたり無くしたりしてもあまりダメージがない物が無難です。

 


消しゴムとシャーペンを使うのは、美術や数学の書き間違い、技術の製図などで十分です。
数学だって途中式を消してはダメですし、問題を最初から解き直したいのなら、大きくバッテンをつければいいだけです。

 


というわけで、「小・中学生こそ万年筆を使うべきなのではないか」という意見でした。


根本にあるのは、「勉強というパーソナルなものに学校が介入しすぎるのをやめよう」という考えです。


間違えても消さなくていいし、最初からキレイに書こうとなんてしなくていい。
万年筆という手のひらサイズの相棒は、君たちをより自由にしてくれるのです。
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(この文章は、万年筆でラフ→スマホに音声入力→スマホのメモ帳で微調整、という方法で書いています)